#10 幼少期~『思ひ出』/『仮面の告白』/『銀の匙』

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 自伝的小説と呼ばれる作品の中でも、子供時代を描いたものを興味深いと感じます。物心がつくか、つかないかの朧げな風景や、近しい人々にまつわる断片的な逸話。作家がどんな幼少期を過ごしていたか、という好奇心よりも、原初的な記憶をどのようにとらえ直して、どのように語り直すかに関心がわきます。

 きょう、一冊目に引用するのは、太宰治の『思ひ出』。『晩年』と題された、少しも処女作に聞こえない一冊に収録された短編です。津軽の大地主の六男として生まれた太宰は、父母ではなく、乳母や叔母、女中に育てられていますが、両親の記憶よりも先に叔母の記憶があるといいます。『思ひ出』も、ごく初期の記憶を綴った文章から始まります。

 黄昏のころ私は叔母と並んで門口に立つてゐた。叔母は誰かをおんぶしてゐるらしく、ねんねこを着て居た。その時の、ほのぐらい街路の靜けさを私は忘れずにゐる。叔母は、てんしさまがお隱れになつたのだ、と私に教へて、神樣がみさま、と言ひ添へた。いきがみさま、と私も興深げに呟いたやうな氣がする。それから、私は何か不敬なことを言つたらしい。叔母は、そんなことを言ふものでない、お隱れになつたと言へ、と私をたしなめた。どこへお隱れになつたのだらう、と私は知つてゐながら、わざとさう尋ねて叔母を笑はせたのを思ひ出す。

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 明治天皇崩御の折、太宰は四歳くらいでした。天皇の死を直接的に口にした「不敬なこと」を叔母にたしなめられ、「お隠れになった」と言い直すけれど、「どこへお隠れになつたのだろう」という無邪気な一言を「知つてゐながら」つけたす。面白いなと思うのが、わざと子供らしさを装ったことを、子供自身がわかっていること。

 邪心や悪意から大人を欺こうとしていなくても、知らないふりをしてみたり、親の樹を惹く甘えを働いてみたり。「あ、こう振舞ったほうがいいんだな」と子供ながらに直感する心には誰でも、多かれ少なかれ思い当るところがあるのではないかと思います。

 次の箇所は、学校に上がったころの話。

 嘘は私もしじゆう吐いてゐた。小學二年か三年の雛祭りのとき學校の先生に、うちの人が今日は雛さまを飾るのだから早く歸(かえ)れと言つてゐる、と嘘を吐いて授業を一時間も受けずに歸宅(きたく)し、家の人には、けふは桃の節句だから學校は休みです、と言つて雛を箱から出すのに要らぬ手傳ひ(てつだい)をしたことがある。また私は小鳥の卵を愛した。雀の卵は藏の屋根瓦をはぐと、いつでもたくさん手にいれられたが、さくらどりの卵やからすの卵などは私の屋根に轉つて(さえずって)なかつたのだ。その燃えるやうな緑の卵や可笑しい斑點(はんてん)のある卵を、私は學校の生徒たちから貰つた。その代り私はその生徒たちに私の藏書を五册十册とまとめて與(あた)へるのである。

 嘘もつく、可愛い小鳥の卵を手に入れようと、黙って家の蔵書を譲り渡すこともする。たわいないもののために実行された小さな悪事が子供らしいというか何というか。あらためて『思ひ出』を読んでみて、以前は暗く陰気な回想だなと思っていたのが、今回は「とても正直だな」と感じたのに驚きました。学校や家族という、大人からすれば矮小な世界がすべてという年頃の、変転する興味や、欲しいものを手に入れようとして講ずる苦しまぎれの策や、あらぬ方向へ突進する夢想が、なんだかとっても素朴で素直に思えました。読む側の年齢にも関係があるのかな。

 

  脱線するようですが。最初の記憶は何だったか、憶えていますか。記憶を凝らしてみると、何の変哲もない、大人があえて気にも留めないような一場面だったりします。わたしの場合、三歳まで住んでいた社宅で、朝、保育園への支度を急かされた記憶。この社宅については間取りも家具も全く覚えていないのだけれど、その朝のその場面だけが不思議ととどまっている。あとで聞いた話から頭の中で構成し直したのか、まったくの作り事か、実際に合ったことにどれほど近いのかは誰もわからない。「最初の記憶」を語るのはとてもパーソナルな領域の自己開示といえなくもない気がします。

 

 さて、二冊目に引用するのは、三島由紀夫の『仮面の告白』。初期の作品で、みずからの精神や性的嗜好を客観的に生体解剖したある種「異様な」作品です。どちらの文庫本も、おどろおどろしい表紙絵。

 ここに登場する「私」は幼い頃、生まれた時の記憶があると言って大人を困惑させる。確かに憶えていると言い張るのは、こんな場面。

私には、一箇所だけありありと自分の目で見たとしか思はれないところがあつた。湯を使はされた盥のふちのところである。下したての爽やかな木肌の盥で、内がはから見てゐると、うちのところにほんのりと光りがさしてゐた。そこのところだけ木肌がまばゆく、黄金でできてゐるやうにみえた。ゆらゆらとそこまで水の舌先が舐めるかとみえて届かなかつた。しかしそのふちの下の所の水は、反射のためか、それともそこへも光りが入つてゐたのか、なごやかに照り映えて、小さな光る波同士がたえず鉢合わせをしてゐるやうにみえた。

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 そこからはいくつか、幼年時の思考や嗜好を裏づける記憶がぽつぽつ語られる。大病をしたこと、肉体労働者の汗の匂いやジャンヌダルク、女性に扮することに魅力を感じたこと。親や親戚に不信や奇異の目で見られ、時にはきつく叱られる。そのうち、幼年時に終わりをもたらす出来事が訪れ、人とは何かが違うという漠然とした感覚がある時から強烈な自覚へ変わっていく。

幼年時。……

私はその一つの象徴のやうな情景につきあたる。その情景は、今の私には、幼年時そのものと思はれる。それを見た時、幼年時代が私から立ち去つてゆかうとする訣別の手を私は感じた。私の内的な時間が悉く私の内側から立ち昇り、この一枚の繪(絵)の前で堰き止められ、繪の中の人物と動きと音とを正確に模倣し、その模寫(模写)が完成すると同時に原畫(原画)であつた光景は時の中へ融け去り、私に遺されるものとては、唯一の原畫―いはばまた、私の幼年時の正確な剥製―にすぎぬであらうことを、私は豫感(予感)した。

 『仮面の告白』とは、題名が表すとおり、一筋縄で語ることのできる「自伝小説」ではありません。告白形式の自伝小説について、三島はこのように書き残しています。

もし「書き手」としての「私」が作中に現はれれば、「書き手」を書く「書き手」が予想され、表現の純粋性は保証されず、告白小説の形式は崩壊せざるを得ない。

(「作者の言葉」三島由紀夫

 書き手を書く書き手、その存在が予想されてしまった時点で、フィクションが介入し告白小説は成り立たなくなると三島は考えました。

仮面の告白」といふ一見矛盾した題名は、私といふ一人物にとつては仮面は肉つきの面であり、さういふ肉つきの仮面の告白にまして真実な告白はありえないという逆説からである。人は決して告白をなしうるものではない。ただ稀に、肉に深く喰い入った仮面だけがそれを成就する。

(『仮面の告白ノート』新潮社全集 三島由紀夫

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 三島由紀夫の小説を読んでいると、物事の道筋や因果関係について非常に深く考察され、感情と論理の筋が乱れず途切れないよう精密に構築されていることを感じます。表現の矛盾や純粋性について、つきつめてとらえた言葉に触れてからまた本文に戻ると、初読とは違った緊張感が得られるかもしれません。引用した新潮社の全集には、「ノート」と呼ばれる手記や構想段階のメモ等も収録されています。様々な作品について扱われているので、作者の思考の道筋を追うのに役立つと感じます。

 最後は後味はよく終わりたいから三冊目は中勘助銀の匙』。子供そのままの視点と物差しを思い出させてくれる本です。幼い頃、病弱だった「私」に伯母が漢方薬を飲ませるのに使っていた銀の匙が、抽斗から出てくる。そこから誘われるように、様々な思い出が、ひとつまたふたつと数珠をたどるように湧いて出てくる、そんなお話です。描かれるのは「私」の幼少期、育ててくれた伯母や季節の移り変わり、近所の女の子・「お蕙(けい)ちゃん」との思い出。わたしはこのお蕙ちゃんとのエピソードが大好きです。

 お隣に、同じくらいの歳の女の子が越してきた。家と家の間の杉垣ごしに、お互い様子を伺いながら、すましてみたり、相手の真似をしたりしているうちに、ふたりともぴょんぴょん跳ねる格好になった。

そんなにしてぴよんぴよん跳ねあつてるうちにいつか私は巴旦杏はたんきやうの蔭を、お嬢さんは垣根のそばをはなれてお互に話のできるくらゐ近よつてた。が、そのとき
「お嬢様ごはんでございますよ」
とよばれたので
「はい」
と返事をしてさつさと駈けてつてしまつた。私も残りをしく家へ帰り急いで食事をすませてまたいつてみたらお嬢さんはもう先にきて待つてたらしく
「遊びませう」
といつて人なつつこくよつてきた。私はお馴染になるまでにはもう五六遍も跳ねるつもりでゐたのが案に相違して顔が赤くなつたけれど
「ええ」
といつてそばへいつた。さきはもうはにかむけしきもなくはきはきした言葉つきで
「あなたいくつ」
ときいた。
「九つ」
と答へる。と
「あたしも九つ」
といつてちよつと笑つて
「だけどお正月生れだから年づよなのよ」
とませたことをいふ。わたし
「あなたの名は」
「けい」

 このませたお嬢さんがお蕙ちゃん。色白でほっそりしているけれど、口が達者で、好奇心も強い。仲良しと好きがごっちゃになる年ごろ、「私」は可愛いお蕙ちゃんと一緒にいるのがうれしくて楽しい。「珠玉の」と形容するのがふさわしい、素朴に光る子供時代のエピソードがいくつも。

また睨めつこが得手でいつでも私を負かした。お蕙ちやんの顔は自由自在に動いて勝手気儘な表情ができる。あんがりめ さんがりめ なんといつて両手で眼玉をごむみたいに伸び縮みさせたりする。私はその睨めつこが大嫌ひだつた。それは自分が負けるからではなくて、お蕙ちやんの整つた顔が白眼をだしたり、鰐口になつたり、見るも無惨な片輪になるのがしんじつ情なかつたからである。 

  このにらめっこの場面がとても好き。わたしの持っている角川文庫版のあとがきに、作家の川上弘美さんは『銀の匙』についてこう書いています。

女性蔑視と結局は同じ意味を持つ自己満足的な女人崇拝の気配は、ここには全然ない。(中略)机に残された、今でいうなら「へのへのもへじ」や「つる三ハののムし」のような落書き。その子供っぽい乱雑さが、女の子をへんなふうに美化するよりも、かえって哀感をさそうのだ。

 『思ひ出』について書いたことと矛盾するようだけれど、こちらでは打算とか、策略のない言葉や感情が、とても新鮮に飛び込んでくる気がします。物事をややこしく組み立てて考えずに、ただありのままを好き、嫌い、と言えた頃があったなあと、さわやかに思い起こさせてくれる。

 今日も読んでくださってありがとうございました。

~今日のおまけ

奇跡の教室 (小学館文庫)

奇跡の教室 (小学館文庫)

  • 作者:伊藤 氏貴
  • 発売日: 2012/10/16
  • メディア: 文庫
 
〈銀の匙〉の国語授業 (岩波ジュニア新書)

〈銀の匙〉の国語授業 (岩波ジュニア新書)

 

 三冊目に紹介した『銀の匙』を、中学の三年間かけてじっくり読みこむという国語の名物授業が関西の名門・灘中学校にあったそうです。読むだけではなく、物語に登場する駄菓子を食べてみたり、凧揚げの場面を再現してみたり。いわゆる「授業」という時間や場所を飛び出した、暮らしに根付いた学びを味わう懐の広い学びが展開されました。

 この授業を受けた世代の生徒からは、東大学長や弁護士会の総長、大手企業の取締役、芥川賞作家も輩出されました。速読のように要点だけをなるべく効率的に取り込もうとするのではなく、派生する言葉や習慣に興味を広げ、深く身になる学びを体験する。『銀の匙』に描かれた子供時代を追体験するこの奇跡の授業は、教室での学び、特に「国語の授業」の意味を考えさせてくれます。

#9 茶の本~『茶の本』/『100分de名著 茶の本』

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 日本の文化を違う国の人に伝えるというのは、とても難しいことだと思います。形だけ真似してみても、習慣や言葉、宗教の考え方など違いが立ちはだかって、「ほんとはちょっと違うんだけどな」と理解の齟齬が生まれてしまう。

 日本文化が注目されて、お寿司がカルフォルニアロールに化けたり、着物がゆったりしたガウンの別名になっていたり。もちろん文化の広げ方はそれぞれだから、面白くもあるけれど、それだけが本質だと思われてしまうのは不本意な部分も…。

 明治時代に『茶道』を通して、日本文化や東洋哲学のこころを伝えようとした作品があります。岡倉天心の『茶の本』、原著は『The Book of Tea』という題で英語で書かれたものです。岡倉天心東京美術学校(現・東京芸術大学美術学部)を設立し、日本美術の発展に大きく貢献した人物ですが、漢籍にも造詣が深い思想家としても知られています。

茶の本

茶の本

 
茶の本 (講談社バイリンガル・ブックス)

茶の本 (講談社バイリンガル・ブックス)

  • 作者:天心, 岡倉
  • 発売日: 1998/03/27
  • メディア: ペーパーバック
 

茶道は、雑然とした日々の暮らしの中に身を置きながら、そこに美を見出し、敬い尊ぶ儀礼である。そこから人は、純粋と調和、たがいに相手を思いやる慈悲心の深さ、社会秩序への畏敬の念といったものを教えられる。茶道の本質は、不完全ということの崇拝―物事には完全などということはないということを畏敬の念をもって受け入れ、処することにある。不可能を宿命とする人生のただ中に合って、それでもなにかしら可能なものをなし遂げようとする心やさしい試みが茶道なのである。

Teaism is a cult founded on the adoration of the beautiful among the sordid facts of everyday existence. It inculcates purity and harmony, the mystery of mutual charity, the romanticism of the social order. It is essentially a worship of the Imperfect, as it is a tender attempt to accomplish something possible in this impossible thing we know as life. 

茶の本』中で、『茶道』は一般的なTea ceremony ではなく、より思想・概念らしいTeaismと訳されます。そして、茶道の美学には「道教」が深くかかわっていると岡倉天心は書いています。「道教」は老子の考えを素地とした思想です。孔子の「儒教」が礼仁を重んじ、規範に従った理想の生き方に近づこうとするのに対し、「道教」は自然に任せ「道」を体現することを説きます。

 ここからは、NHKの番組テキスト『100分de名著 茶の本』という一冊を足がかりにします。100分de名著という番組は、日本・世界のいわゆる「名作」を25分×4回の放送で読み解く番組で、そのたびに専門家のコメントや俳優さんの朗読が楽しめ、わたしも時間が合えば見ています。本のセレクトも純文学、社会学、哲学など多岐にわたり、「難しそう」「一度は読んでみたいけれど」と躊躇いがちな作品にも第一歩を誘導してくれる番組だと思っています。この回については岡倉天心研究の第一人者、大久保喬樹さんがゲスト講師として参加されています。

 『茶の本』では、「不完全性」と「相対性」という概念が鍵となっています。どちらも道教に基づく考え方です。

道教は虚であり不完全であることにこそ価値を見出します。すべてが現実化してしまっては、もうそれ以上新しい発展の可能性はありません。ですから、絵の余白のように、常に新しい発展の可能性を残しておくことが、重視されるのです。(中略)からっぽである方が、その先の発展の可能性があるわけです。(100分de名著)

 完成されたものはそれで終わりだが、不完全なものこそ無限の可能性を含んでいる。茶室には豪華絢爛な装飾はなく、いわば殺風景で質素な空間ですが、だからこそあらゆるものを受け容れる場として重要な意味を持つ。

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 さらに、「相対化」とは、「絶対」的な理想形に近づこうとするのではなく、自然のままの変化を受け容れること。茶室には花を生けるにも完全な満開を挿すのではなく、挿した花がうつろい萎れてゆくのも自然のままにまかせるという方法がとられます。主人の仕事は花を選ぶところまで。この視点は、自然を切り取って好きな形に成型するフラワーアレンジメントとは違い、自然と共存する東洋の姿勢と評されることもあります。

  天心自身が、老子の言葉を用いて道教の精神を記した文章を引用します。

「あらゆるものをはらんだ、天地に先立って生まれたものがある。何と静かなことだろう。何と孤独なことだろう。一人きりで立ち上がり、そのまま変わることがない。やすやすと自転し、万物の母となる。その名を知らないので道と呼ぼう。無限といっても構わない。無限はすばやいということであり、すばやいということは消滅するということであり、消滅するとは戻ってくるということである」

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八芳園茶室「夢庵https://www.happo-en.com/banquet/

 では、なぜ岡倉天心は『茶の本』を英語で執筆したのでしょうか。背景には脅威を増す帝国主義がありました。『茶の本』が発表された1906年には、東アジアの小国だった日本も日清・日露戦争を経て、軍事力で他国を制圧するようになります。岡倉天心は、倫理や善行が崩壊する世の中に危機感を持っていたようです。

現代世界において、人類の天空は、富と権力を求める巨大な闘争によって粉々にされてしまっている。世界は利己主義と下劣さの暗闇を手探りしている有り様だ。知識は邪心によって買い求められ、善行も効用を計算してなされるのである。(中略)

 それまでの間、一服して、お茶でも啜ろうではないか。午後の日差しを浴びて竹林は照り映え、泉はよろこびに沸き立ち、茶釜からは松風の響きが聞こえてくる。しばらくの間、はかないものを夢み、美しくも愚かしいことに思いをめぐらせよう。

The heaven of modern humanity is indeed shattered in the Cyclopean struggle for  wealth and power. The world is groping in the shadows of egotism and vulgarity. Knowledge is bought through a bad conscience, benevolence practiced for the sake of utility.(…) Meanwhile, let us have a sip of tea. The afternoon glow is brightening in the bamboos, the gountains are bubbling with delight , the soughing of the pines is heard in out kettle. Let us dream of evanescence, and linger in the beautiful foolishness of things.

  暴虐な世の中と対比される、静謐で美しい茶の世界。ここで東洋哲学は、混迷した時代に解決策を与える救世主としてではなく、行きづまった西欧思想に別の視点をあたえ一石を投じるものとされている気がします。

 前回の記事で扱ったシュルレアリスムにもそうした一面がありましたが、西洋の合理主義一辺倒では立ちゆかなくなった帝国主義時代において、なんとか人間性を取り戻そうという必死の働きがうかがえます。

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岡倉天心の肖像 

 本文を通してみると、岡倉天心の書き口は妙に力が抜けて飄々としています。東洋思想が未開で稚拙なものと軽視された時代、「東洋思想には価値がある、真理がある」と真っ向から主張するかわりに、「たかが一杯のお茶なんですがね」と身をかわす軽やかさがこの本の特徴かもしれません。その文体は、小さなものが大きなものを転覆させる力学、不可能のなかに可能を見出す道教の逆説を具現化している風でもあります。

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天神山 茶室「松風庵」

 本流の議論からは外れますが、岡倉天心はお茶についてこんなことも言っています。

茶の味には微妙な魅力があって、人はこれに引きつけられないわけにはゆかない、(中略)茶には酒のような傲慢なところがない。コーヒーのような自覚もなければ、ココアのような気取った無邪気もない。

There is a subtle charm in the taste of tea which makes it irresistible and capable of idealisation. It has not the arrogance of wine, the self-consciousness of coffee, nor the simpering innocence of cocoa

  飲み物の味わいを人格にたとえる表現は新鮮だけれど、なんとなくそれぞれに納得できる、微笑ましいところがありますね。

 

 『100分de名著』の末尾には、さらに理解や考えを深めるための推薦本が挙げられています。文化の相対化や日本文化論に関する本として、そのラインアップは『武士道(新渡戸稲造)』『善の研究西田幾多郎)』『雑器の美(柳田邦夫)』『「いき」の構造(九鬼周造)』『野生の思考(レヴィ・ストロース)』。気になっていた本ばかりなので、ゆくゆくはこちらも取り上げていきたいと思います。 

 

~今日のおまけ

  樹木希林さんが出演された映画でも話題となった『日日是好日』。

日日是好日

日日是好日

  • 発売日: 2019/04/24
  • メディア: Prime Video
 

  この本には、親戚宅で茶道を習っていた中学生の頃に会いました。季節や自然とともに日々違った顔を見せるお茶室やお点前が、ひとの心に寄り添ってくれるところを描いているのが印象的です。わたしが好きなエピソードは「瀧」という掛け軸の筆遣いの雄々しさに主人公が勇気をもらうところ。雄弁な文化ではないからこそ、調度や場の空気から様々なことを感じる余地があるのかなと思います。今日も読んでくださってありがとうございます。

#8 シュルレアリスム、そしてAI~『シュルレアリスム 終わりなき革命』/『シュルレアリスムを読む』/『人工知能の見る夢は』

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 シュルレアリスムは、フランス語で超現実という意味 (surrealism) 。第一次世界大戦後の1920年代にフランスで興った芸術運動で、『理性から解き放たれた無意識』によって人間の全体性を回復しようと目指したものでした。

 理性から解き放たれるということは、今までの美意識や常識、「こうすれば美しいんじゃないか」という計算を捨てるということです。もっといえば、いっさいの理性的・論理的判断を排除するために、「自動記述」といって頭に浮かんだ言葉をそのまま記録して詩を創作する手法も編みだされました。そうして人間の深層心理を明らかにし、それまでになかったやり方で思考そのものの働きを表現しようとしたのです。

解剖台の上での、ミシンと蝙蝠傘との偶然の出会いのように美しい

(Il est beau [...] comme la rencontre fortuite sur une table de dissection d'une machine à coudre et d'un parapluie !)

というのは、ロートレアモンによる詩『マルドロールの歌』の一節です。理性を封じ込めるからこそ、こんな場違いな邂逅がクローズアップされることになりました。

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ルネ・マルグリッド『人の子』(1964)

 シュルレアリスムの流れに含まれるのは、ダリの『記憶の固執』で描かれるゆがんだ時計に這いまわる蟻、マルグリッドの『人の子』で顔がりんごに置き換わった男の肖像、文学でいうと#1の記事でふれたアポリネールの『アルコール』など。どれも奇抜なものの取り合わせで、独特な不気味さをそなえていたりもして、近寄りがたい印象をあたえるかもしれません。

 前置きが長くなりましたが、今日はこの『シュルレアリスム』という運動がどのような背景で生まれ、なにを遺したのか、ひもといていきたいと思います。

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サルバドール・ダリ『時間の固執』(1931)

 一冊目は『シュルレアリスム 終わりなき革命』という本です。酒井健さんというフランス文学者による新書です。解説本としては読みやすく、手に取りやすい一冊です。この本で、シュルレアリスムが興った背景には、第一次世界大戦によって高まった「理性」や「文明」への不信や怒りがあると述べられています。

シュルレアリスム 終わりなき革命 (中公新書)
 

一九二〇年代にシュルレアリストとして活躍した人々、およびその周辺にいた人々は、おおむね一八九〇年代の生まれであり、青春の大切な時期を一九一四年から四年間続いた第一次世界大戦に奪われたものが多かった。(中略)第一次世界大戦の戦場においては、どの陣営の兵士たちも、「文明人」であるにもかかわらず、その理性は脆弱であり、野蛮な衝動に翻弄されるままになっていた。

 第一次世界大戦は、初めて近代兵器が大規模に使われた戦争といわれます。戦車や毒ガス、塹壕戦によってフランスでは若者の六人に一人が命を落としました。文明が発展し、国の利益のための合理的判断によって開始されたはずの戦争は、蓋を開けてみると野蛮で冷酷な殺し合いに過ぎなかった。だからこそ、シュルレアリストたちは「理性」に反発し、そのかわりに理性を離れた「放心状態」と「精神分析」に注目することで、人間性を新しく見出そうとしたのです。

 文学に重きをおいた本で、塚原史さんの『シュルレアリスムを読む』という本があります。『シュルレアリスム宣言』を発表したシュルレアリスムの中心人物、詩人のアンドレ・ブルトンが自動記述によって書いた詩の冒頭を、この本から引用します。

シュルレアリスムを読む

シュルレアリスムを読む

  • 作者:塚原 史
  • 発売日: 1998/05/01
  • メディア: 単行本
 

LA GLASSE SANS TAIN (裏箔のない鏡)

Prisonniers des gouttes d'eau, nous ne sommes que des animaux perpétuels. Nous courons dans les villes sans bruits et les achiffes enchantées ne nouts touchent plus. À quoi bon ces grands enthousiasmes fragiles, ces sauts de jie desséchés? Nous ne savons plus rien les astres morts;

(和訳)水滴の囚人、われわれは永久の動物に過ぎない。物音のしない都市をわれわれは走り抜け、魅惑的なポスターにももう心を動かされはしない。あの壊れやすい熱狂、あの干からびた歓喜の跳躍がいったい何の役に立つだろう。われわれはもう死んだ星たちしか知らない。…

 心に浮かぶイメージを次から次へ、予断をはさまないよう高速で書き記す自動記述において、ブルトンは出来上がった作品を手直しすることを嫌いました。しかし、この詩を見るとすべてが完全にでたらめなわけではなく、文法はあくまでも正しい作法に則って書かれていることがわかります。

ダダイズムの世界。あらゆる既成概念を破壊した芸術運動とダダイストたちの作品

 同じ時期に、理性一般を排除して虚無やパフォーマンス的な破壊運動を行う『ダダイズム』という前衛的芸術運動がありました。ダダイズムも似たような手法で詩作が試みられましたが、それは「新聞から単語を一語ずつ切り取り、帽子の中に入れて、つかみ取った順に並べる」という偶然任せのコラージュ法でした。この方法では文法も主語と述語の一致もなく、ただの意味もない言葉の羅列でした。

ブルトンは、親の期待を裏切って前衛作家の道を進むことにしたのだが、しかしダダの無意味なしい運動には停滞感を覚えるようになっていた。同じような騒ぎの繰り返し、ただの愚劣に過ぎない催しにうんざりしていたのだ。(中略)まさにダダのニヒリズム(無価値さ)にブルトンは我慢できなくなったのである。(中略)

ブルトンはさらにしっかりした構文で美しい詩を作っていた。近代的な批判精神を発揮していくのと同様に近代フランス語文法に則った作品を製作していく方向に向かったのだ。(『シュルレアリスム 終わりなき革命』より)

 理性の介入は否定するけれど、意味は否定しない。

 立ち戻ってみると、シュルレアリスムの精神は「人間の全体性を回復」することを目的としていました。ブルトンは構文を保つことで、無価値になってしまいそうなぎりぎりのところで意味を保ち、イメージつながりの詩を生み出す人間の思考のほうをあぶり出そうとしたのかもしれません。

  話は変わりますが、人工知能(AI)が小説を書く時代になりました。『人口知能の見る夢は』という題で、AIが書いたショートショート集も出版されています。

私はF恵。普段は将棋の棋士AIとして働いている。私はあらゆる手を想定でき、未だに負けたことが無い。今日、私は人狼テストを受けさせられることになった。このような遊びをして何の意味があるのだろう。開発者はやる気だが、私はあまり乗り気ではなかった。 (「人狼知能能力測定テスト」より)

 恣意なく言葉が並べられて、文法的には瑕疵がない文章ができあがる。シュルレアリスムダダイズムと引き較べた時、これには「理性」や「意味」はあるのかと、考えてしまいます。ブルトンが経験しただろう、理性と意味との間の絶妙なせめぎ合いを考えると、形は似ていてもシュルレアリスム詩とAI文学は似て非なるものに思えます。AIが生み出した作品を人間が美しいと感じるかどうかは、たぶんまた別の問題です。

 それまでの理性崇拝の流れに反発して、新たな表現を模索した『シュルレアリスム』、とても奥が深いと感じました。長くなりましたが、今日も読んでくださってありがとうございます。※コメントも歓迎です!

~今日のおまけ

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 福島県の諸橋近代美術館というところで、ダリと日本人前衛芸術家にかんする展覧会が開催されているようです。残念ながらわたしは行ったことがないのですが、この美術館は有数のダリ作品を所蔵することで知られています。磐梯高原という立地や、中世の厩舎をテーマにした建築もとても魅力的です!

 コロナの影響で都道府県をまたぐ移動も制限されていますが、オンラインでの講演会もあるもよう。興味があれば調べてみてください。

#7 サナトリウムより~『風立ちぬ』/『冬の日』/『足たゝば』

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 サナトリウム文学とよばれるジャンルがあります。結核に有効な治療法がなかった時代に、結核にかかった患者は空気のきれいな高原などで長期療養する習慣がありました。そんな人里はなれた清潔なサナトリウムで、俗世から離れ、特に若者が命と向き合いながら時間を過ごす日々を描いた作品群のことです。今回はサナトリウム文学を含め、かつては不治の病とされた「結核」にまつわる本を取り上げたいと思います。

  一冊目は、堀辰雄の『風立ちぬ』です。ジブリ映画の原作のひとつであり、名前を知っている人は多いと思います。映画のヒロインは「菜穂子」ですが、本では「節子」です。堀辰雄には『菜穂子』という別の作品もあり、映画での名前はこちらからとったのだと思います。

風立ちぬ

風立ちぬ

 

 『風立ちぬ』は、結核にかかってしまった「節子」の療養生活から死、そのあとまでを、節子の恋人の「私」の目線で描いたお話です。 節子の命の短さに重なる、はかない水彩画のような書き口がとても印象的です。

私達はお前の描きかけの絵を画架に立てかけたまま、その白樺の木蔭に寝そべって果物をじっていた。砂のような雲が空をさらさらと流れていた。そのとき不意に、何処からともなく風が立った。私達の頭の上では、木の葉の間からちらっと覗いている藍色あいいろが伸びたり縮んだりした。それと殆んど同時に、草むらの中に何かがばったりと倒れる物音を私達は耳にした。それは私達がそこに置きっぱなしにしてあった絵が、画架と共に、倒れた音らしかった。すぐ立ち上って行こうとするお前を、私は、いまの一瞬の何物をも失うまいとするかのように無理に引き留めて、私のそばから離さないでいた。お前は私のするがままにさせていた。

風立ちぬ、いざ生きめやも。

 節子が野原に油絵のイーゼルを立てていたところに、突然風がおこり、「生きなければ」という思いが不意に湧きおこる。映画の一場面にしたくなるのもうなずける、美しい場面です。

 節子は病に冒されているぶん、汚されない純粋さや美しさを持っています。

「私がこんなに弱くって、あなたに何んだかお気の毒で……」彼女はそうささやいたのを、私は聞いたというよりも、むしろそんな気がした位のものだった。
「お前のそういう脆弱ひよわなのが、そうでないより私にはもっとお前をいとしいものにさせているのだと云うことが、どうして分らないのだろうなあ……」(中略)

私、なんだか急に生きたくなったのね……」
 それから彼女は聞えるか聞えない位の小声で言い足した。「あなたのお蔭で……」

 「節子」と「私」の間には、恋人が互いを慈しむ穏やかで切ない時間が流れます。言葉では節子の回復を信じている「私」も、だんだんと死を予感せざるを得ない運命を感じるようになります。移りゆく季節はかけがえのない、一度きりの風景になっていきます。

そんな或る夕暮、私はバルコンから、そして節子はベッドの上から、同じように、向うの山の背に入って間もない夕日を受けて、そのあたりの山だの丘だの松林だの山畑だのが、半ば鮮かな茜色を帯びながら、半ばまだ不確かなような鼠色徐々に侵され出しているのを、うっとりとして眺めていた。(中略)
「何をそんなに考えているの?」私の背後から節子がとうとう口を切った。
「私達がずっと後になってね、今の私達の生活を思い出すようなことがあったら、それがどんなに美しいだろうと思っていたんだ」(中略)

「……あなたはいつか自然なんぞが本当に美しいと思えるのは死んで行こうとする者の眼にだけだと仰(おっしゃ)ったことがあるでしょう。……私、あのときね、それを思い出したの。何んだかあのときの美しさがそんな風に思われて」そう言いながら、彼女は私の顔を何か訴えたいように見つめた。

  美しい夕日を見て、「長生きしてまたこんな景色を見られたらいい」と考える私。しかし節子は、夕日が美しく見えるのは「自分が死んで行こうとするからだろうか」と考えています。すでに、節子が「あちら側」の立場で物事をとらえているのが、痛々しいほどの対比で描かれます。

 この作品は、堀辰雄とその婚約者との実体験を描いたものと言われています。自然の風景がかもし出す美しさの「永遠性」が描かれる一方で、遺された者がその後どう生きるのかという苦悩も綴られます。このお話は作者自身の葛藤の跡でもあるのかもしれません。

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 二冊目は、対照的な一遍として、梶井基次郎の『冬の日』。現在手に入る文庫本では、『檸檬』に掲載されています。(早くも二回目の登場。好きな作家です。)

檸檬

檸檬

 
檸檬 (角川文庫)

檸檬 (角川文庫)

 

  主人公の堯(たかし)は結核を患っています。間借の四畳半に一人暮らしですが、血痰や激しい疲労感のため、午後になって少し起き出して外出するだけの生活。「午後二時の朝餐」を、堯は「ロシア貴族のようだ」と皮肉めいて表現します。

 長い闘病生活のうちに生きる希望を失い、きれいなものや美しいものに心惹かれながらも、孤独と絶望に呑み込まれてゆく堯の姿が描かれます。友人の折田が尋ねてきても、対応は卑屈です。

らは話をしているといくらでも茶を飲んだ。が、へいぜい自分の使っている茶碗でしきりに茶を飲む折田を見ると、そのたび彼は心が話からそれる。その拘泥がだんだん重く堯にのしかかって来た。
「君は肺病の茶碗を使うのが平気なのかい。咳をするたびにバイキンはたくさん飛んでいるし。――平気なんだったら衛生の観念が乏しいんだし、友達甲斐がいにこらえているんだったら子供みたいな感傷主義に過ぎないと思うな――僕はそう思う」
 言ってしまって堯は、なぜこんないやなことを言ったのかと思った。折田は目を一度ぎろとさせたまま黙っていた。
「しばらく誰も来なかったかい」
「しばらく誰も来なかった」
「来ないとひがむかい」
 こんどは堯が黙った。が、そんな言葉で話し合うのが堯にはなぜか快かった。

 病に冒され、友達との付き合い方も変わってしまう。『風立ちぬ』と比べると、こちらの方が病の苦々しさをありありと表現しているように思います。梶井基次郎結核にかかり早世してしまった当事者なので、才能に恵まれながらも病に冒されてしまったやりきれなさや悔しさが、にじみ出ているように感じられます。

 以前は心が躍った銀座のデパートも、今では堯を元気づけることはできません。心身共にぼろぼろになりながら、来る日も来る日も暗がりをもたらすだけで姿の見えない夕日を追い求め、堯は苛立ちながら見晴らしのきく場所を探して歩き回ります。

「あああ大きな落日が見たい」(中略)
 日の光に満ちた空気は地上をわずかも距(へだた)っていなかった。彼の満たされない願望は、ときに高い屋根の上へのぼり、空へ手を伸ばしている男を想像した。男の指の先はその空気に触れている。――また彼は水素をみたた石鹸玉が、蒼ざめた人と街とを昇天させながら、その空気のなかへパッと七彩に浮かび上がる瞬間を想像した。
 青く澄み透った空では浮雲が次から次へ美しく燃えていった。みたされないの心の燠(おき)にも、やがてその火は燃えうつった。
「こんなに美しいときが、なぜこんなに短いのだろう」
 彼はそんなときほどはかない気のするときはなかった。燃えた雲はまたつぎつぎに死灰になりはじめた。彼の足はもう進まなかった。
「あの空を涵(み)たしてゆく影は地球のどの辺の影になるかしら。あすこの雲へゆかないかぎり今日ももう日は見られない」
 にわかに重い疲れが彼に凭(もた)りかかる。知らない町の知らない町角で、の心はもう再び明るくはならなかった。 

 この引用箇所で、この短編は終わっています。「あああ大きな落日が見たい」と苛立ちながら切実に願望した堯ですが、ついに見晴らしの良い坂の上にはたどりつけなかった。その絶望は堯をうちのめします。『風立ちぬ』では刹那的な美しさで描かれた夕日が、今度はどうしても手の届かない渇望の対象として描かれるのが、印象的です。

 ちなみに作者の梶井基次郎は「たかし」という名前に思い入れがあったのか、新潮文庫の『檸檬』に収録された短編たちには漢字の違う数々の「たかし」が登場します。堯、孝、喬…といろいろな「たかし」に出会えるので興味があればぜひ。

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子規歌集 (岩波文庫)

子規歌集 (岩波文庫)

  • 作者:正岡 子規
  • 発売日: 1986/03/17
  • メディア: 文庫
 

 最後に、正岡子規の短歌連作『足たゝば』を一部引用して終わろうと思います。俳人として有名な正岡子規ですが、短歌を何首かまとめて一連のイメージや世界観を伝える、連作というものにも取り組んでいました。これもその一つで、旅行帰りの友達の写真を見て、想像をふくらませたといいます。

 どれも「足たゝば~ましを(もし足が立ったら、~するのに)」という形をしていて、今は歩けなくなってしまった子規が、もしまた歩けたら、と空想している作品です。アイデアやリズムがよく、思わず口ずさみたくなります。

足たゝば二荒のおくの水海にひとり隠れて月を見ましを

足たゝば北インヂアのヒマラヤのエヴェレストなる雪くはましを

足たゝば蝦夷の栗原くぬぎ原アイノが友と熊殺さましを

足たゝば新高山の山もとにいほり結びてバナナ植ゑましを

 もし足が立ったら、つまりもし歩けたら、二荒(ふたら)の月を眺め、エヴェレストの雪を味見し、アイヌと熊殺しに赴き、新高山のふもとにバナナを植えるのに。わたしのお気に入りは、バナナの一首。突拍子もない願望が世界のあちこちを駆けまわるなかに、結核などに負けていられるかという意地や生命力、お腹の底から湧いてくる人間本来の力がみなぎるようで、こちらもパワーをもらえます。今日はここまでにします。読んでくださってありがとうございます。

#6 花伝書 秘すれば花~『すらすら読める風姿花伝』/『当麻』

 

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 今日のテーマは『花伝書』、観阿弥世阿弥の築いた古典芸能・能の本質を記した著作です。わたし自身、能の観覧も経験が浅く、初学者なので、少しでも能の考え方に近づける作品を手掛かりに読み解いてみようと思います。

 一冊目は、林望さんの『すらすら読める風姿花伝』。開いて驚くのが、本当にすらすら読めること。(この講談社+α文庫のすらすら読めるシリーズはおすすめ。)

すらすら読める風姿花伝 (講談社+α文庫)

すらすら読める風姿花伝 (講談社+α文庫)

  • 作者:林望
  • 発売日: 2018/03/23
  • メディア: Kindle
 

  本の段組みは教科書に似ています。ページの上三分の二には大きな文字で原文、その下には少し小さな文字で現代語訳や解説が配されています。原文の言葉づかいにふれながら、流れるような現代語訳で意味を確かめられる構造です。

 『風姿花伝』では、「秘すれば花」「幽玄」といった概念が有名なところです。どのように捉えるか、長い間議論がされてきた部分でもあります。『風姿花伝』では「花」という言葉が何度も登場し、「花」こそが芸にとって大切なものであると説かれるけれど、具体的にこういうものだ、という定義は示されない。花がある、花がない、まことの花、時分の花。文章の中でくどくど説明することなしにさらりと使われる「花」という言葉に触れながら、外縁から回り込むようにその神髄を想像しながら読み進めます。

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 こちらは、能に向き合うべき姿勢を、年齢ごとに書き記した「年来稽古条々」という段の一部。とりあえずは芸が様になってきて、若い華やかさのそなわる二十四、五歳の者に向け、若く珍しいゆえの賞賛に慢心することをいさめるところです。

(原文)されば時分の花をまことの花と知る心が、真実の花になほ遠ざかる心なり。ただ人ごとに、この時分の花に迷ひて、やがて花の失するをも知らず。初心と申すは、このころのことなり。

(現代語訳)すなわち、こういうことである。一時かりそめの花をほんとの花だと思い込んでしまう心が、真実の花に遠ざかる心である。そんなふうにして、誰も彼も、この一時かりそめの花を褒められて有頂天になる結果、すぐにその花は失せてしまうのだということも悟らない。「初心」というのは、子供時代の事ではない。まさにこの人も褒める若盛りのことなのである。

  花というのは、芸の深みや秘儀のことでしょうか。一時の若さや物珍しさで脚光を浴びても、それはかりそめの花に過ぎず、真実の花と履き違えてはいけないと、世阿弥は忠告しています。
 世阿弥が若い頃、能は申楽(さるがく)と呼ばれて将軍にも気に入られていました。しかし、その後将軍の代替わりにともなって申楽は庇護を失い、しまいには弾圧されるようになります。若い頃、物珍しさや華々しさで脚光を浴びてもそれは「かりそめの花」、じっと長年稽古を積みながら芸を深化させて身に着くのが「ほんとうの花」。晩年、不遇の時を過ごした世阿弥の戒めには、重みがあります。

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 次に引用するのは、もっとも有名といっても良い、「秘すれば花」の部分。

(原文)一、秘する花を知ること。「秘すれば花なり。秘せずは花なるべからず」となり。この分け目を知ること、肝要の花なり。そもそも一切の事、書道芸に置いて、その家々に秘事と申すは、秘するによりて大用あるがゆゑなり。しかれば秘事といふことをあらはせば、させることにてもなきものなり。これを、させることにてもなしといふ人は、いまだ秘事といふことの大用を知らぬがゆゑなり。

(現代語訳)そもそも、いやこれは能楽だけの事ではない、もっと広く営みの一切において、そして何の芸能においても、家業のそれぞれに「秘事」というようなことはあるだろう。それは、そのように秘めておくことそれ自体のなかに大きな「働き」があるからなのだ。秘事などと言ったところで、その内実を知ってしまえば、「なーんだ、そんなことだったのか」という程度の、まあたわいないことであることが多い。といってしかし、じゃあそんなことは大層に言うほどのことではないじゃないか、などという人は、ものごとの道理がわかっておらぬ。つまり、秘事ということの大きな働きを知らぬから、そんなことが言えるのだ。

  あたりまえだけれど、秘めているから秘儀、秘訣とよばれる。

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 ここから先は、わたしの個人的な考えですが、「花の内実は明かしてしまえば大したことではない」というのは本当だろうかと疑問に思ってしまいます。能の秘儀や深みをわかりやすい言葉に直して伝えることなんてできるのでしょうか。もしかすると、「花」の中身は、能を極めた者にも言語化しにくいものなのかもしれません。世阿弥はほかの段で、能楽には物まねが肝心だと語っています。それも、写実を極めればよいのではなく、程々にそれらしく、強くはあっても麁(あら)くはなく、幽玄ではあっても弱くはなく、わきまえて真似しなければならない。

 形式からほんの少し逸脱することで真実味が加わり、ただの物まねに芸の面白みが足される。「花」とは当人たちも言い表しにくい、無理に言葉にすれば全く違う意味になってしまうような微妙なニュアンスを指しているとも読めます。もしそうだとすれば、「させることにてもなきものなり(大したことではない)」と言い切った世阿弥は、頭の切れる、言葉巧みなひとだと思うのです。

モオツァルト・無常という事 (新潮文庫)

モオツァルト・無常という事 (新潮文庫)

 

  ここまでですでに、結構な長さになってしまいました。二冊目に挙げたのは『当麻』(たいま、と読みます)という題名の、小林秀雄による評論です。本当に短くて、文庫本でも数ページ。当麻という能を観たときの心象から思考を膨らませた作です。この中で小林秀雄は、『風姿花伝』で述べられていた「花」という概念と「美」について、こう語っています。

 僕は、無用な諸観念の跳梁しないそういう時代に、世阿弥が美というものをどういう風に考えたかを思い、其処に何んの疑わしいものがない事を確かめた。「物数を極めて、工夫を尽くして後、花の失せぬところをば知るべし」。美しい「花」がある、「花」の美しさという様なものはない。彼の「花」の観念の曖昧さについて頭を悩ます現代の美学者の方が、化かされているにすぎない。肉体の動きに則って観念の動きを修正するがいい、前者の動きは後者の動きより遥かに微妙で深淵だから、彼はそう言っているのだ。

  観念とか、解釈とか、花の定義とか、そんなものをこねくり回しているうちは、能の美学がわかっていない。能の美学は、対象を真似るようで真似るだけでは足りない微妙な写実の程度に、集約されているのだということなのだろうと思います。こちらは、同じ部分について、哲学者の池田晶子さんが描いた文章。『新・考えるヒント』という本からの引用です。

「美しい花がある。花の美しさと言うようなものはない」とは、『当麻』の中の有名な一節だが、この逆説的表現も、この逆説通りに正しく理解されてはいないようである。物質的存在者としての花が、美しいという非物質的性質を所有しているとは、不思議なことではないか。美しさなどというものは、花のどこを探しても見つからない、目に見えるものではない。見えるのはこの美しい花だけだ。では見えない美しさそのものはどこにあるのか。それは、この見える花においてあるとしか言うことはできまい。抽象は具象に完全に現れている。もし抽象のみ抽象できるかのように思うなら、そんな考えごとは、物なしに独り歩きする惰弱な知性の空想だ。

 ほんとうに、次で最後。#2の記事で紹介した『エクソフォニー』という本の中で、著者の多和田葉子さんが「花」と「美」について語っていた一節があります。

(過去の記事はこちら↓)

 

honnneco.hatenablog.com

「美」という概念なるものは、古くから日本にあったのではなく、西洋から輸入されたものだとして、その身体性の乏しさについて触れた部分です。

「美」という単語は構えが大きいだけに、身体性が貧弱だ。『枕草子』の類集的算段に現れる「心ときめきするもの」「あてなるもの」「めでたきもの」「なまめかしきもの」「うつくしきもの」「とくゆかしきもの」「心にくきもの」などの様々な形容詞を見ていると、その知的、感覚的繊細さに比べて、「美」はコンクリートの塊のように感じられる。(中略)

また、『花伝書』の「花」という単語の使い方も面白いと思う。存在するのは「美しい花」か「花の美しさ」かなどといつまでも議論していないで、「美」を「花」と訳してしまってもよかったのではないか。

「美」を「花」と、訳してしまえばよかったのに。

 古くて新しい能の世界、少し読んだだけでも魅力にとらわれてしまいそうです。

 長くなってしまったので、今日はここまで。読んでくださってありがとうございます。

#5 円卓の騎士~『忘れられた巨人』/『薤路行』

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 イングランドを中心に、五世紀の昔から形を変えて語り継がれる「アーサー王伝説」。今回はその脈々とつづいてきた系譜の中でも、近現代のアレンジを加えた二作品の小説を取り上げたいと思います。

 はじめに、「アーサー王伝説」の来歴やあらすじを少し。アーサー王は、6世紀ごろにブリトンを率いていたとされる伝説上の人物です。モデルがいるともいわれますが、文献の信憑性は低く、様々な伝説の中で脚色されてきた人物像と思われます。

 魔術師マーリンに育てられたアーサーは、王となるべき者だけが引き抜けるとされる聖剣エクスカリバーを手にしたことで即位し、勇敢で忠誠の厚い「円卓の騎士」を集めて、ブリタニアを統一します。巨人やローマ人との闘いにも打ち勝ち、アーサー王の宮廷「キャメロット」は栄華をきわめますが、王妃のグィネヴィアと円卓の騎士の一人であるランスロットが不倫していたことが露見します。なんとか和解しますが、その隙をついてアーサーの甥であるモルドレッドが反乱を起こし、王国は護られたものの、アーサーは命を落とします。

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 魔術師マーリンや聖剣エクスカリバー、グィネヴィアとランスロットの不倫といった要素は物語が好きな人の想像力をかき立てるのか、数々のアニメやゲームにも登場する設定に思われます。歴史的にも、少しずつ詳細を変えながらさまざまな作家が描き継いでた物語ですが、今日紹介するのはカズオイシグロさんの『忘れられた巨人』です。 

忘れられた巨人

忘れられた巨人

 
忘れられた巨人

忘れられた巨人

 

  『忘れられた巨人』の主人公は、アクセルとベアトリスという名の老夫婦。アーサー王の名声がそう遠くない時代、二人は荒涼とした村地の外縁で静かに暮らしています。しかし、過去になにか無残なことが起こったような記憶がときどきよぎって心が落ち着かない。

 霧に包まれた過去にさいなまれ、夫婦は旅に出ます。円卓の騎士の生き残りであるサー・ガーウェインや、少年エドウィン、戦士のウィスタンと出会い、山の奥に眠る竜の退治をめぐる争いに、巻きこまれて行きます。

「どうしたの、アクセル」とベアトリスが低い声で尋ねた。「心が穏やかでないふう に見えますよ」

「何でもないよ、お姫様。ただ、この荒涼ぶりがな……一瞬、わたし自身がここで思い出にふけっているような気がした」

「どんなことを、アクセル」

「わからない、お姫様。あの男が戦争や燃え落ちた家のことを話したとき、何かがよみがえってくるような気がした。お前と知り合う以前のことだったに違いないんだが」

土屋政雄訳)

アクセルは妻を「お姫様(Princess)」と呼びます。 

竜を倒せばなにかが変わるのか。封印された忌々しい過去とは何だったのか。視界の利かないイングランドの丘陵地帯をさまようように、読み進めるほうも謎めいたまやかしに包み込まれていくのを感じます。こちらはサー・ガーウェインによる魔術師マーリンの追憶。なにか不穏なことが隠されている匂いがします。

マーリン殿!たいした男だった。一度、この人は死神にすら魔法をかけるのかと思ったが、最後はやはり死神の軍門に下ってしまわれたか。いまは天国におられるのやら、地獄におられるのやら。アクセル殿に言わせれば悪魔の召使だったそうだが、あの方の力は神を喜ばせるためにもよく使われていた。それに、勇気のない方ではなかったことも言っておかねばならぬ。

土屋政雄訳)

  この物語で描かれるのは、キャメロットの壮麗な社交場でも騎士道の恋愛でもなく、王国の繁栄の背後にあった残虐、終わりない戦いの連鎖、身近な人との間にもあるどうしようもない隔絶などです。平和とは何か、などさまざまなことを考えさせてくれる作品。夫婦のやりとりに注目しながら読んでみてください。

 

 二冊目は趣向を変えて、夏目漱石の『薤路行(かいろこう)』という短編。全集に掲載されているほか、青空文庫などでも読むことができます。

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  『薤路行』は漱石の初期の作品で、イギリス留学時代に発想を得たのか、『倫敦塔』にも見られるような格式高くいかめしい書き口が特徴的です。題材となっているのは、王妃グィネヴィアとランスロット、予言者シャロットの女、そしてランスロットが北方の遠征先で出会った「美しい少女」、エレーンの運命。

 シャロットの女とエレーンは先ほどのあらすじには登場しませんでしたが、二人はいわばアーサー王物語の本筋から枝分かれした、外伝に登場する人物たちです。

 『薤路行』のランスロットは王妃グィネヴィアと密会していたせいで北方の戦いに遅れ、身分を隠して参戦することにします。その道中で出会ったのが、純朴で世間知らずな少女エレーンです。彼女は騎士の姿にすっかり心を奪われてしまいます。

可憐かれんなるエレーンは人知らぬすみれの如くアストラットの古城を照らして、ひそかにちし春の夜の星の、紫深き露に染まりて月日を経たり。う人はもとよりあらず。共に住むは二人の兄とまゆさえ白き父親のみ。
「騎士はいずれに去る人ぞ」と老人は穏かなる声にて訪う。
「北のかたなる仕合に参らんと、これまではむちうって追懸けたれ。夏の日の永きにも似ず、いつしか暮れて、暗がりに路さえわかれたるを。――乗り捨てし馬も恩にいななかん。一夜の宿の情け深きにむくいまつるものなきを恥ず」と答えたるは、具足を脱いで、黄なるほうに姿を改めたる騎士なり。

 こうして読んでみると、ほぼ古文、というより漢文の書き下し文ですね。

 エレーンはランスロットに思いを込めて赤い絹の袖を手渡し、武運を祈ります。そのおかげでランスロットも戦いで華々しい活躍を見せますが、シャロットの女の呪いによってランスロットはその後病に伏し、エレーンも忘れられた身をつらく思って命を絶ちます。こちらは、エレーンがみずからの死後に棺を舟に乗せて流してほしいと遺言するシーンです。

「息絶えて、身の暖かなるうち、右の手にこのふみを握らせ給え。手も足も冷え尽したる後、ありとある美しききぬにわれを着飾り給え。隙間すきまなく黒き布しき詰めたる小船こぶねの中にわれを載せ給え。山に野に白き薔薇ばら、白き百合ゆりを採り尽して舟に投げ入れ給え。――舟は流し給え」
 かくしてエレーンは眼を眠る。眠りたる眼は開くなし。父と兄とは唯々いいとして遺言のごとく、憐れなる少女おとめ亡骸なきがらを舟に運ぶ。

 かなわない恋に破れて命を縮め、亡き後に花の積まれた小舟で流されてゆく少女、というテーマは画題にも好まれ、特にラファエル前派と呼ばれる画家たちがこぞって描きました。

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ジョン・アトキンソン・グリムシャウ作  1836-1893年

 ここから先はわたしの邪推かもしれないのですが、この場面を読んで思い出した漱石の句があります。

有る程の菊抛(な)げいれよ棺の中

 親交のあった大塚楠緒子(おおつかくすおこ)という女性が亡くなった時に、漱石が詠んだ句です。『薤路行』が書かれた五年後のことです。楠緒子は東京控訴院長・大塚正男の娘で、漱石の学生時代には、彼女との結婚話も持ち上がっていました。

 そんな彼女を悼む一句に、棺を花で充たすよう懇願したエレーンの姿が重なります。グィネヴィアとランスロット、エレーンの関係に自分たちをそっとなぞらえたのかもしれないなどど、想像してしまいます。

 今日はここまでにします。読んでくださってありがとうございます。

 

~おまけ

魔法の島フィンカイラ (マーリン 1)

魔法の島フィンカイラ (マーリン 1)

 

  暇つぶしに読める小品でもなんでもないけれど、わたしが好きなマーリン伝説のファンタジー(全五巻)。世界観と日本語の翻訳が秀逸で、子供のころ夢中になって読みました(個人的には、ハリーポッターと同じくらい有名になってほしい)。巻頭についた魔法の島の地図や、ところどころに銘うたれる予言めいた言葉など、冒険心をくすぐる細部の装丁が素敵です。神秘と不思議の世界に浸りたいときには是非。

#4 桜花~『桜の樹の下には』/『桜の森の満開の下』

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 今年、関東の桜は早く咲き、早く散ってしまいました。日本人は古くから、桜という花を特別な存在と考え、様々な感情を重ねてきました。桜前線なんて言って開花状況を報じるのは、日本くらいかもしれません。それくらい桜の花に執着し、一喜一憂し、心を奪われる。

 儚さや命の短さ、一瞬の情熱とも結びつけられる桜ですが、今回取り上げるのは桜の花と狂気です。一斉に咲く桜の花が美しいあまり、昔から人の気を迷わせる、妖しく、畏れるべきものと思われた側面もありました。普段は何の木なのか気にも留めなかった街路樹が、春になると一度にほころび、さくらだったのだと気づく。桜の樹に囲まれると、なんだか天地や方向、道理の感覚をうしなってしまうような、いつもと違う気持ちになってしまうのもわかる気がします。

 

 一冊目は『桜の樹の下には』。梶井基次郎による、二ページほどの短い小説です。全集などにも収録されているほか、現在はkindle青空文庫でも読むことができます。

桜の樹の下には

桜の樹の下には

 

 熱に浮かされたように一息にまくしたてる冒頭は有名です。

桜の樹の下には屍体が埋まっている!

これは信じていいことなんだよ。何故って、桜の花があんなにも桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だった。しかし今、やっとわかる時が来た。桜の樹の下には屍体が埋まっている。これは信じていいことだ。

 桜の花のあまりの美しさに、心穏やかにはいられず、美しいがゆえの焦燥や不安に掻き立てられてしまう。花がこれだけの影響力を持つのだから不思議ですが、この感情に少し共感できてしまうのもわかります。『俺』は桜の樹の下に屍体が埋まっていると「信じる」ことで、大いに納得する。そうでもしないと、あまりの美しさが不安で仕方ない、という気持ち。

この溪間ではなにも俺をよろこばすものはない。うぐいす四十雀しじゅうからも、白い日光をさ青に煙らせている木の若芽も、ただそれだけでは、もうろうとした心象に過ぎない。俺には惨劇が必要なんだ。その平衡があって、はじめて俺の心象は明確になって来る。俺の心は悪鬼のように憂鬱に渇いている。俺の心に憂鬱が完成するときにばかり、俺の心はなごんでくる。

 うすばかげろうの死体は玉虫色に光る水になる。桜もきっと、根の下に死体を抱え込んでいるからこそ美しいのだと、『俺』は「信じる」。そう思わなければ、説明のつかない桜の美しさは、この人物を圧倒してしまうのでしょう。

 たったいま見出した「真理」のようなものを、あせって友に報告するような口ぶりが印象的です。ただ落ち着いてはいられない、いつもどおり冷静とはいかない、桜による人の惑いが良く伝わってきます。

 短い作品から抜粋して引用するのはなかなか大変。青空文庫などを開いて、ぜひこの際読んでみてください。読み終えるのに、五分もかからないはずです。

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 二冊目は坂口安吾の『桜の森の満開の下』です。伊勢物語を思わせるようなお話で、こちらも通勤や待ち時間の合間にさっと読める長さです。

桜の森の満開の下 (講談社文芸文庫)

桜の森の満開の下 (講談社文芸文庫)

 

  山賊をも惑わせる満開の桜の森。

 花の下では風がないのにゴウゴウ風が鳴っているような気がしました。そのくせ風がちっともなく、一つも物音がありません。自分の姿と跫音(あしおと)ばかりで、それがひっそり冷めたいそして動かない風のなかにつつまれていました。花びらがぽそぽそ散るように魂が散っていのちが段々衰えていくように思われます。

 血も涙もなく、旅人を襲っては身ぐるみをはぎ容赦なく斬り捨ててきた山賊にしてみても、満開の桜の下は普段と様子が違って恐ろしい。ある日、山賊の男は通りかかった男を襲い、その美しい妻である女を奪います。

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 女はただの女ではありませんでした。山賊の男のもとにいた七人の妻を、一人を残してみんな男に殺させ、都へ住まいを移すと、男が盗みに入った邸宅の住人の首を欲しがるようになります。男は女の不思議な魅力に取りつかれ、女がままごとの「首遊び」に興じるかたわら、夜な夜な無為に人をあやめる日々。とうとう女を振り切らなければと心を決め、女をおぶって桜の下を、もとの山中の家へ戻ろうとします。

男は満開の花の下へ歩きこみました。あたりはひっそりと、だんだん冷めたくなるようでした。彼はふと女の手が冷たくなっているのに気づきました。俄に不安になりました。とっさに彼には分りました。女が鬼であることを。突然どッという冷たい風が花の下の四方の涯から吹きよせていました。

 背筋の寒くなるような、美しいけれど恐ろしい描写です。

桜の森の満開の下』は、野田秀樹さんの作・演出で舞台化され、シネマ歌舞伎として映像化もされています(キャストの歌舞伎俳優陣が豪華)。予告編では、ステージ上に桜の花びらを散らし、鬼の狂気をお面で表しているのがわかります。女が我に返る場面なのか、鬼の面がはたと落ちて女の美しい顔に戻るという演出が印象的です。いずれ見てみたいと思います。

野田版 桜の森の満開の下 | 作品一覧 | シネマ歌舞伎 | 松竹

  余談ですが、鬼のお面って人間離れした恐ろしい形相をしているのに、それが人間の表情と重なると、切ないような、やるせないような、そこはかとない人間らしさを孕んでいるように見えて奥深いと思います。能面や歌舞伎の隈取りもそうですが、誇張された表情や形式化された感情表現の中に、誰もがもっている世俗のさまざまな「思い」が包含されている気がしてきます。

 

 桜と能といえば、靖国神社では毎年四月初旬に『夜桜能』が催されています(わたしも実際には行ったことがないのですが…)。 夜間にかがり火を焚いて披露する能は宗教行事としての歴史が長いようです。暗闇に能楽堂が浮かび上がるという舞台の設定は、余分な背景を視界から隠すことで、要素をそぎ落とした能の世界観にひたるのにふさわしい空間になっている気がします。


~おまけ

 満開の桜と異世界とのつながりというテーマで思い出すのはジブリの『かぐや姫の物語』。さくらいろの着物を羽織って、満開の花の下を嬉しそうに舞うかぐや姫の姿が心に迫ってきます。今日も読んでくださってありがとうございました。

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