#8 シュルレアリスム、そしてAI~『シュルレアリスム 終わりなき革命』/『シュルレアリスムを読む』/『人工知能の見る夢は』

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 シュルレアリスムは、フランス語で超現実という意味 (surrealism) 。第一次世界大戦後の1920年代にフランスで興った芸術運動で、『理性から解き放たれた無意識』によって人間の全体性を回復しようと目指したものでした。

 理性から解き放たれるということは、今までの美意識や常識、「こうすれば美しいんじゃないか」という計算を捨てるということです。もっといえば、いっさいの理性的・論理的判断を排除するために、「自動記述」といって頭に浮かんだ言葉をそのまま記録して詩を創作する手法も編みだされました。そうして人間の深層心理を明らかにし、それまでになかったやり方で思考そのものの働きを表現しようとしたのです。

解剖台の上での、ミシンと蝙蝠傘との偶然の出会いのように美しい

(Il est beau [...] comme la rencontre fortuite sur une table de dissection d'une machine à coudre et d'un parapluie !)

というのは、ロートレアモンによる詩『マルドロールの歌』の一節です。理性を封じ込めるからこそ、こんな場違いな邂逅がクローズアップされることになりました。

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ルネ・マルグリッド『人の子』(1964)

 シュルレアリスムの流れに含まれるのは、ダリの『記憶の固執』で描かれるゆがんだ時計に這いまわる蟻、マルグリッドの『人の子』で顔がりんごに置き換わった男の肖像、文学でいうと#1の記事でふれたアポリネールの『アルコール』など。どれも奇抜なものの取り合わせで、独特な不気味さをそなえていたりもして、近寄りがたい印象をあたえるかもしれません。

 前置きが長くなりましたが、今日はこの『シュルレアリスム』という運動がどのような背景で生まれ、なにを遺したのか、ひもといていきたいと思います。

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サルバドール・ダリ『時間の固執』(1931)

 一冊目は『シュルレアリスム 終わりなき革命』という本です。酒井健さんというフランス文学者による新書です。解説本としては読みやすく、手に取りやすい一冊です。この本で、シュルレアリスムが興った背景には、第一次世界大戦によって高まった「理性」や「文明」への不信や怒りがあると述べられています。

シュルレアリスム 終わりなき革命 (中公新書)
 

一九二〇年代にシュルレアリストとして活躍した人々、およびその周辺にいた人々は、おおむね一八九〇年代の生まれであり、青春の大切な時期を一九一四年から四年間続いた第一次世界大戦に奪われたものが多かった。(中略)第一次世界大戦の戦場においては、どの陣営の兵士たちも、「文明人」であるにもかかわらず、その理性は脆弱であり、野蛮な衝動に翻弄されるままになっていた。

 第一次世界大戦は、初めて近代兵器が大規模に使われた戦争といわれます。戦車や毒ガス、塹壕戦によってフランスでは若者の六人に一人が命を落としました。文明が発展し、国の利益のための合理的判断によって開始されたはずの戦争は、蓋を開けてみると野蛮で冷酷な殺し合いに過ぎなかった。だからこそ、シュルレアリストたちは「理性」に反発し、そのかわりに理性を離れた「放心状態」と「精神分析」に注目することで、人間性を新しく見出そうとしたのです。

 文学に重きをおいた本で、塚原史さんの『シュルレアリスムを読む』という本があります。『シュルレアリスム宣言』を発表したシュルレアリスムの中心人物、詩人のアンドレ・ブルトンが自動記述によって書いた詩の冒頭を、この本から引用します。

シュルレアリスムを読む

シュルレアリスムを読む

  • 作者:塚原 史
  • 発売日: 1998/05/01
  • メディア: 単行本
 

LA GLASSE SANS TAIN (裏箔のない鏡)

Prisonniers des gouttes d'eau, nous ne sommes que des animaux perpétuels. Nous courons dans les villes sans bruits et les achiffes enchantées ne nouts touchent plus. À quoi bon ces grands enthousiasmes fragiles, ces sauts de jie desséchés? Nous ne savons plus rien les astres morts;

(和訳)水滴の囚人、われわれは永久の動物に過ぎない。物音のしない都市をわれわれは走り抜け、魅惑的なポスターにももう心を動かされはしない。あの壊れやすい熱狂、あの干からびた歓喜の跳躍がいったい何の役に立つだろう。われわれはもう死んだ星たちしか知らない。…

 心に浮かぶイメージを次から次へ、予断をはさまないよう高速で書き記す自動記述において、ブルトンは出来上がった作品を手直しすることを嫌いました。しかし、この詩を見るとすべてが完全にでたらめなわけではなく、文法はあくまでも正しい作法に則って書かれていることがわかります。

ダダイズムの世界。あらゆる既成概念を破壊した芸術運動とダダイストたちの作品

 同じ時期に、理性一般を排除して虚無やパフォーマンス的な破壊運動を行う『ダダイズム』という前衛的芸術運動がありました。ダダイズムも似たような手法で詩作が試みられましたが、それは「新聞から単語を一語ずつ切り取り、帽子の中に入れて、つかみ取った順に並べる」という偶然任せのコラージュ法でした。この方法では文法も主語と述語の一致もなく、ただの意味もない言葉の羅列でした。

ブルトンは、親の期待を裏切って前衛作家の道を進むことにしたのだが、しかしダダの無意味なしい運動には停滞感を覚えるようになっていた。同じような騒ぎの繰り返し、ただの愚劣に過ぎない催しにうんざりしていたのだ。(中略)まさにダダのニヒリズム(無価値さ)にブルトンは我慢できなくなったのである。(中略)

ブルトンはさらにしっかりした構文で美しい詩を作っていた。近代的な批判精神を発揮していくのと同様に近代フランス語文法に則った作品を製作していく方向に向かったのだ。(『シュルレアリスム 終わりなき革命』より)

 理性の介入は否定するけれど、意味は否定しない。

 立ち戻ってみると、シュルレアリスムの精神は「人間の全体性を回復」することを目的としていました。ブルトンは構文を保つことで、無価値になってしまいそうなぎりぎりのところで意味を保ち、イメージつながりの詩を生み出す人間の思考のほうをあぶり出そうとしたのかもしれません。

  話は変わりますが、人工知能(AI)が小説を書く時代になりました。『人口知能の見る夢は』という題で、AIが書いたショートショート集も出版されています。

私はF恵。普段は将棋の棋士AIとして働いている。私はあらゆる手を想定でき、未だに負けたことが無い。今日、私は人狼テストを受けさせられることになった。このような遊びをして何の意味があるのだろう。開発者はやる気だが、私はあまり乗り気ではなかった。 (「人狼知能能力測定テスト」より)

 恣意なく言葉が並べられて、文法的には瑕疵がない文章ができあがる。シュルレアリスムダダイズムと引き較べた時、これには「理性」や「意味」はあるのかと、考えてしまいます。ブルトンが経験しただろう、理性と意味との間の絶妙なせめぎ合いを考えると、形は似ていてもシュルレアリスム詩とAI文学は似て非なるものに思えます。AIが生み出した作品を人間が美しいと感じるかどうかは、たぶんまた別の問題です。

 それまでの理性崇拝の流れに反発して、新たな表現を模索した『シュルレアリスム』、とても奥が深いと感じました。長くなりましたが、今日も読んでくださってありがとうございます。※コメントも歓迎です!

~今日のおまけ

dali.jp

 福島県の諸橋近代美術館というところで、ダリと日本人前衛芸術家にかんする展覧会が開催されているようです。残念ながらわたしは行ったことがないのですが、この美術館は有数のダリ作品を所蔵することで知られています。磐梯高原という立地や、中世の厩舎をテーマにした建築もとても魅力的です!

 コロナの影響で都道府県をまたぐ移動も制限されていますが、オンラインでの講演会もあるもよう。興味があれば調べてみてください。

#7 サナトリウムより~『風立ちぬ』/『冬の日』/『足たゝば』

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 サナトリウム文学とよばれるジャンルがあります。結核に有効な治療法がなかった時代に、結核にかかった患者は空気のきれいな高原などで長期療養する習慣がありました。そんな人里はなれた清潔なサナトリウムで、俗世から離れ、特に若者が命と向き合いながら時間を過ごす日々を描いた作品群のことです。今回はサナトリウム文学を含め、かつては不治の病とされた「結核」にまつわる本を取り上げたいと思います。

  一冊目は、堀辰雄の『風立ちぬ』です。ジブリ映画の原作のひとつであり、名前を知っている人は多いと思います。映画のヒロインは「菜穂子」ですが、本では「節子」です。堀辰雄には『菜穂子』という別の作品もあり、映画での名前はこちらからとったのだと思います。

風立ちぬ

風立ちぬ

 

 『風立ちぬ』は、結核にかかってしまった「節子」の療養生活から死、そのあとまでを、節子の恋人の「私」の目線で描いたお話です。 節子の命の短さに重なる、はかない水彩画のような書き口がとても印象的です。

私達はお前の描きかけの絵を画架に立てかけたまま、その白樺の木蔭に寝そべって果物をじっていた。砂のような雲が空をさらさらと流れていた。そのとき不意に、何処からともなく風が立った。私達の頭の上では、木の葉の間からちらっと覗いている藍色あいいろが伸びたり縮んだりした。それと殆んど同時に、草むらの中に何かがばったりと倒れる物音を私達は耳にした。それは私達がそこに置きっぱなしにしてあった絵が、画架と共に、倒れた音らしかった。すぐ立ち上って行こうとするお前を、私は、いまの一瞬の何物をも失うまいとするかのように無理に引き留めて、私のそばから離さないでいた。お前は私のするがままにさせていた。

風立ちぬ、いざ生きめやも。

 節子が野原に油絵のイーゼルを立てていたところに、突然風がおこり、「生きなければ」という思いが不意に湧きおこる。映画の一場面にしたくなるのもうなずける、美しい場面です。

 節子は病に冒されているぶん、汚されない純粋さや美しさを持っています。

「私がこんなに弱くって、あなたに何んだかお気の毒で……」彼女はそうささやいたのを、私は聞いたというよりも、むしろそんな気がした位のものだった。
「お前のそういう脆弱ひよわなのが、そうでないより私にはもっとお前をいとしいものにさせているのだと云うことが、どうして分らないのだろうなあ……」(中略)

私、なんだか急に生きたくなったのね……」
 それから彼女は聞えるか聞えない位の小声で言い足した。「あなたのお蔭で……」

 「節子」と「私」の間には、恋人が互いを慈しむ穏やかで切ない時間が流れます。言葉では節子の回復を信じている「私」も、だんだんと死を予感せざるを得ない運命を感じるようになります。移りゆく季節はかけがえのない、一度きりの風景になっていきます。

そんな或る夕暮、私はバルコンから、そして節子はベッドの上から、同じように、向うの山の背に入って間もない夕日を受けて、そのあたりの山だの丘だの松林だの山畑だのが、半ば鮮かな茜色を帯びながら、半ばまだ不確かなような鼠色徐々に侵され出しているのを、うっとりとして眺めていた。(中略)
「何をそんなに考えているの?」私の背後から節子がとうとう口を切った。
「私達がずっと後になってね、今の私達の生活を思い出すようなことがあったら、それがどんなに美しいだろうと思っていたんだ」(中略)

「……あなたはいつか自然なんぞが本当に美しいと思えるのは死んで行こうとする者の眼にだけだと仰(おっしゃ)ったことがあるでしょう。……私、あのときね、それを思い出したの。何んだかあのときの美しさがそんな風に思われて」そう言いながら、彼女は私の顔を何か訴えたいように見つめた。

  美しい夕日を見て、「長生きしてまたこんな景色を見られたらいい」と考える私。しかし節子は、夕日が美しく見えるのは「自分が死んで行こうとするからだろうか」と考えています。すでに、節子が「あちら側」の立場で物事をとらえているのが、痛々しいほどの対比で描かれます。

 この作品は、堀辰雄とその婚約者との実体験を描いたものと言われています。自然の風景がかもし出す美しさの「永遠性」が描かれる一方で、遺された者がその後どう生きるのかという苦悩も綴られます。このお話は作者自身の葛藤の跡でもあるのかもしれません。

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 二冊目は、対照的な一遍として、梶井基次郎の『冬の日』。現在手に入る文庫本では、『檸檬』に掲載されています。(早くも二回目の登場。好きな作家です。)

檸檬

檸檬

 
檸檬 (角川文庫)

檸檬 (角川文庫)

 

  主人公の堯(たかし)は結核を患っています。間借の四畳半に一人暮らしですが、血痰や激しい疲労感のため、午後になって少し起き出して外出するだけの生活。「午後二時の朝餐」を、堯は「ロシア貴族のようだ」と皮肉めいて表現します。

 長い闘病生活のうちに生きる希望を失い、きれいなものや美しいものに心惹かれながらも、孤独と絶望に呑み込まれてゆく堯の姿が描かれます。友人の折田が尋ねてきても、対応は卑屈です。

らは話をしているといくらでも茶を飲んだ。が、へいぜい自分の使っている茶碗でしきりに茶を飲む折田を見ると、そのたび彼は心が話からそれる。その拘泥がだんだん重く堯にのしかかって来た。
「君は肺病の茶碗を使うのが平気なのかい。咳をするたびにバイキンはたくさん飛んでいるし。――平気なんだったら衛生の観念が乏しいんだし、友達甲斐がいにこらえているんだったら子供みたいな感傷主義に過ぎないと思うな――僕はそう思う」
 言ってしまって堯は、なぜこんないやなことを言ったのかと思った。折田は目を一度ぎろとさせたまま黙っていた。
「しばらく誰も来なかったかい」
「しばらく誰も来なかった」
「来ないとひがむかい」
 こんどは堯が黙った。が、そんな言葉で話し合うのが堯にはなぜか快かった。

 病に冒され、友達との付き合い方も変わってしまう。『風立ちぬ』と比べると、こちらの方が病の苦々しさをありありと表現しているように思います。梶井基次郎結核にかかり早世してしまった当事者なので、才能に恵まれながらも病に冒されてしまったやりきれなさや悔しさが、にじみ出ているように感じられます。

 以前は心が躍った銀座のデパートも、今では堯を元気づけることはできません。心身共にぼろぼろになりながら、来る日も来る日も暗がりをもたらすだけで姿の見えない夕日を追い求め、堯は苛立ちながら見晴らしのきく場所を探して歩き回ります。

「あああ大きな落日が見たい」(中略)
 日の光に満ちた空気は地上をわずかも距(へだた)っていなかった。彼の満たされない願望は、ときに高い屋根の上へのぼり、空へ手を伸ばしている男を想像した。男の指の先はその空気に触れている。――また彼は水素をみたた石鹸玉が、蒼ざめた人と街とを昇天させながら、その空気のなかへパッと七彩に浮かび上がる瞬間を想像した。
 青く澄み透った空では浮雲が次から次へ美しく燃えていった。みたされないの心の燠(おき)にも、やがてその火は燃えうつった。
「こんなに美しいときが、なぜこんなに短いのだろう」
 彼はそんなときほどはかない気のするときはなかった。燃えた雲はまたつぎつぎに死灰になりはじめた。彼の足はもう進まなかった。
「あの空を涵(み)たしてゆく影は地球のどの辺の影になるかしら。あすこの雲へゆかないかぎり今日ももう日は見られない」
 にわかに重い疲れが彼に凭(もた)りかかる。知らない町の知らない町角で、の心はもう再び明るくはならなかった。 

 この引用箇所で、この短編は終わっています。「あああ大きな落日が見たい」と苛立ちながら切実に願望した堯ですが、ついに見晴らしの良い坂の上にはたどりつけなかった。その絶望は堯をうちのめします。『風立ちぬ』では刹那的な美しさで描かれた夕日が、今度はどうしても手の届かない渇望の対象として描かれるのが、印象的です。

 ちなみに作者の梶井基次郎は「たかし」という名前に思い入れがあったのか、新潮文庫の『檸檬』に収録された短編たちには漢字の違う数々の「たかし」が登場します。堯、孝、喬…といろいろな「たかし」に出会えるので興味があればぜひ。

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子規歌集 (岩波文庫)

子規歌集 (岩波文庫)

  • 作者:正岡 子規
  • 発売日: 1986/03/17
  • メディア: 文庫
 

 最後に、正岡子規の短歌連作『足たゝば』を一部引用して終わろうと思います。俳人として有名な正岡子規ですが、短歌を何首かまとめて一連のイメージや世界観を伝える、連作というものにも取り組んでいました。これもその一つで、旅行帰りの友達の写真を見て、想像をふくらませたといいます。

 どれも「足たゝば~ましを(もし足が立ったら、~するのに)」という形をしていて、今は歩けなくなってしまった子規が、もしまた歩けたら、と空想している作品です。アイデアやリズムがよく、思わず口ずさみたくなります。

足たゝば二荒のおくの水海にひとり隠れて月を見ましを

足たゝば北インヂアのヒマラヤのエヴェレストなる雪くはましを

足たゝば蝦夷の栗原くぬぎ原アイノが友と熊殺さましを

足たゝば新高山の山もとにいほり結びてバナナ植ゑましを

 もし足が立ったら、つまりもし歩けたら、二荒(ふたら)の月を眺め、エヴェレストの雪を味見し、アイヌと熊殺しに赴き、新高山のふもとにバナナを植えるのに。わたしのお気に入りは、バナナの一首。突拍子もない願望が世界のあちこちを駆けまわるなかに、結核などに負けていられるかという意地や生命力、お腹の底から湧いてくる人間本来の力がみなぎるようで、こちらもパワーをもらえます。今日はここまでにします。読んでくださってありがとうございます。

#6 花伝書 秘すれば花~『すらすら読める風姿花伝』/『当麻』

 

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 今日のテーマは『花伝書』、観阿弥世阿弥の築いた古典芸能・能の本質を記した著作です。わたし自身、能の観覧も経験が浅く、初学者なので、少しでも能の考え方に近づける作品を手掛かりに読み解いてみようと思います。

 一冊目は、林望さんの『すらすら読める風姿花伝』。開いて驚くのが、本当にすらすら読めること。(この講談社+α文庫のすらすら読めるシリーズはおすすめ。)

すらすら読める風姿花伝 (講談社+α文庫)

すらすら読める風姿花伝 (講談社+α文庫)

  • 作者:林望
  • 発売日: 2018/03/23
  • メディア: Kindle
 

  本の段組みは教科書に似ています。ページの上三分の二には大きな文字で原文、その下には少し小さな文字で現代語訳や解説が配されています。原文の言葉づかいにふれながら、流れるような現代語訳で意味を確かめられる構造です。

 『風姿花伝』では、「秘すれば花」「幽玄」といった概念が有名なところです。どのように捉えるか、長い間議論がされてきた部分でもあります。『風姿花伝』では「花」という言葉が何度も登場し、「花」こそが芸にとって大切なものであると説かれるけれど、具体的にこういうものだ、という定義は示されない。花がある、花がない、まことの花、時分の花。文章の中でくどくど説明することなしにさらりと使われる「花」という言葉に触れながら、外縁から回り込むようにその神髄を想像しながら読み進めます。

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 こちらは、能に向き合うべき姿勢を、年齢ごとに書き記した「年来稽古条々」という段の一部。とりあえずは芸が様になってきて、若い華やかさのそなわる二十四、五歳の者に向け、若く珍しいゆえの賞賛に慢心することをいさめるところです。

(原文)されば時分の花をまことの花と知る心が、真実の花になほ遠ざかる心なり。ただ人ごとに、この時分の花に迷ひて、やがて花の失するをも知らず。初心と申すは、このころのことなり。

(現代語訳)すなわち、こういうことである。一時かりそめの花をほんとの花だと思い込んでしまう心が、真実の花に遠ざかる心である。そんなふうにして、誰も彼も、この一時かりそめの花を褒められて有頂天になる結果、すぐにその花は失せてしまうのだということも悟らない。「初心」というのは、子供時代の事ではない。まさにこの人も褒める若盛りのことなのである。

  花というのは、芸の深みや秘儀のことでしょうか。一時の若さや物珍しさで脚光を浴びても、それはかりそめの花に過ぎず、真実の花と履き違えてはいけないと、世阿弥は忠告しています。
 世阿弥が若い頃、能は申楽(さるがく)と呼ばれて将軍にも気に入られていました。しかし、その後将軍の代替わりにともなって申楽は庇護を失い、しまいには弾圧されるようになります。若い頃、物珍しさや華々しさで脚光を浴びてもそれは「かりそめの花」、じっと長年稽古を積みながら芸を深化させて身に着くのが「ほんとうの花」。晩年、不遇の時を過ごした世阿弥の戒めには、重みがあります。

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 次に引用するのは、もっとも有名といっても良い、「秘すれば花」の部分。

(原文)一、秘する花を知ること。「秘すれば花なり。秘せずは花なるべからず」となり。この分け目を知ること、肝要の花なり。そもそも一切の事、書道芸に置いて、その家々に秘事と申すは、秘するによりて大用あるがゆゑなり。しかれば秘事といふことをあらはせば、させることにてもなきものなり。これを、させることにてもなしといふ人は、いまだ秘事といふことの大用を知らぬがゆゑなり。

(現代語訳)そもそも、いやこれは能楽だけの事ではない、もっと広く営みの一切において、そして何の芸能においても、家業のそれぞれに「秘事」というようなことはあるだろう。それは、そのように秘めておくことそれ自体のなかに大きな「働き」があるからなのだ。秘事などと言ったところで、その内実を知ってしまえば、「なーんだ、そんなことだったのか」という程度の、まあたわいないことであることが多い。といってしかし、じゃあそんなことは大層に言うほどのことではないじゃないか、などという人は、ものごとの道理がわかっておらぬ。つまり、秘事ということの大きな働きを知らぬから、そんなことが言えるのだ。

  あたりまえだけれど、秘めているから秘儀、秘訣とよばれる。

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 ここから先は、わたしの個人的な考えですが、「花の内実は明かしてしまえば大したことではない」というのは本当だろうかと疑問に思ってしまいます。能の秘儀や深みをわかりやすい言葉に直して伝えることなんてできるのでしょうか。もしかすると、「花」の中身は、能を極めた者にも言語化しにくいものなのかもしれません。世阿弥はほかの段で、能楽には物まねが肝心だと語っています。それも、写実を極めればよいのではなく、程々にそれらしく、強くはあっても麁(あら)くはなく、幽玄ではあっても弱くはなく、わきまえて真似しなければならない。

 形式からほんの少し逸脱することで真実味が加わり、ただの物まねに芸の面白みが足される。「花」とは当人たちも言い表しにくい、無理に言葉にすれば全く違う意味になってしまうような微妙なニュアンスを指しているとも読めます。もしそうだとすれば、「させることにてもなきものなり(大したことではない)」と言い切った世阿弥は、頭の切れる、言葉巧みなひとだと思うのです。

モオツァルト・無常という事 (新潮文庫)

モオツァルト・無常という事 (新潮文庫)

 

  ここまでですでに、結構な長さになってしまいました。二冊目に挙げたのは『当麻』(たいま、と読みます)という題名の、小林秀雄による評論です。本当に短くて、文庫本でも数ページ。当麻という能を観たときの心象から思考を膨らませた作です。この中で小林秀雄は、『風姿花伝』で述べられていた「花」という概念と「美」について、こう語っています。

 僕は、無用な諸観念の跳梁しないそういう時代に、世阿弥が美というものをどういう風に考えたかを思い、其処に何んの疑わしいものがない事を確かめた。「物数を極めて、工夫を尽くして後、花の失せぬところをば知るべし」。美しい「花」がある、「花」の美しさという様なものはない。彼の「花」の観念の曖昧さについて頭を悩ます現代の美学者の方が、化かされているにすぎない。肉体の動きに則って観念の動きを修正するがいい、前者の動きは後者の動きより遥かに微妙で深淵だから、彼はそう言っているのだ。

  観念とか、解釈とか、花の定義とか、そんなものをこねくり回しているうちは、能の美学がわかっていない。能の美学は、対象を真似るようで真似るだけでは足りない微妙な写実の程度に、集約されているのだということなのだろうと思います。

 ほんとうに、次で最後。#2の記事で紹介した『エクソフォニー』という本の中で、著者の多和田葉子さんが「花」と「美」について語っていた一節があります。

(過去の記事はこちら↓)

「美」という概念なるものは、古くから日本にあったのではなく、西洋から輸入されたものだとして、その身体性の乏しさについて触れた部分です。

「美」という単語は構えが大きいだけに、身体性が貧弱だ。『枕草子』の類集的算段に現れる「心ときめきするもの」「あてなるもの」「めでたきもの」「なまめかしきもの」「うつくしきもの」「とくゆかしきもの」「心にくきもの」などの様々な形容詞を見ていると、その知的、感覚的繊細さに比べて、「美」はコンクリートの塊のように感じられる。(中略)

また、『花伝書』の「花」という単語の使い方も面白いと思う。存在するのは「美しい花」か「花の美しさ」かなどといつまでも議論していないで、「美」を「花」と訳してしまってもよかったのではないか。

「美」を「花」と、訳してしまえばよかったのに。

 古くて新しい能の世界、少し読んだだけでも魅力にとらわれてしまいそうです。

 長くなってしまったので、今日はここまで。読んでくださってありがとうございます。

#5 円卓の騎士~『忘れられた巨人』/『薤路行』

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 イングランドを中心に、五世紀の昔から形を変えて語り継がれる「アーサー王伝説」。今回はその脈々とつづいてきた系譜の中でも、近現代のアレンジを加えた二作品の小説を取り上げたいと思います。

 はじめに、「アーサー王伝説」の来歴やあらすじを少し。アーサー王は、6世紀ごろにブリトンを率いていたとされる伝説上の人物です。モデルがいるともいわれますが、文献の信憑性は低く、様々な伝説の中で脚色されてきた人物像と思われます。

 魔術師マーリンに育てられたアーサーは、王となるべき者だけが引き抜けるとされる聖剣エクスカリバーを手にしたことで即位し、勇敢で忠誠の厚い「円卓の騎士」を集めて、ブリタニアを統一します。巨人やローマ人との闘いにも打ち勝ち、アーサー王の宮廷「キャメロット」は栄華をきわめますが、王妃のグィネヴィアと円卓の騎士の一人であるランスロットが不倫していたことが露見します。なんとか和解しますが、その隙をついてアーサーの甥であるモルドレッドが反乱を起こし、王国は護られたものの、アーサーは命を落とします。

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 魔術師マーリンや聖剣エクスカリバー、グィネヴィアとランスロットの不倫といった要素は物語が好きな人の想像力をかき立てるのか、数々のアニメやゲームにも登場する設定に思われます。歴史的にも、少しずつ詳細を変えながらさまざまな作家が描き継いでた物語ですが、今日紹介するのはカズオイシグロさんの『忘れられた巨人』です。 

忘れられた巨人

忘れられた巨人

 
忘れられた巨人

忘れられた巨人

 

  『忘れられた巨人』の主人公は、アクセルとベアトリスという名の老夫婦。アーサー王の名声がそう遠くない時代、二人は荒涼とした村地の外縁で静かに暮らしています。しかし、過去になにか無残なことが起こったような記憶がときどきよぎって心が落ち着かない。

 霧に包まれた過去にさいなまれ、夫婦は旅に出ます。円卓の騎士の生き残りであるサー・ガーウェインや、少年エドウィン、戦士のウィスタンと出会い、山の奥に眠る竜の退治をめぐる争いに、巻きこまれて行きます。

「どうしたの、アクセル」とベアトリスが低い声で尋ねた。「心が穏やかでないふう に見えますよ」

「何でもないよ、お姫様。ただ、この荒涼ぶりがな……一瞬、わたし自身がここで思い出にふけっているような気がした」

「どんなことを、アクセル」

「わからない、お姫様。あの男が戦争や燃え落ちた家のことを話したとき、何かがよみがえってくるような気がした。お前と知り合う以前のことだったに違いないんだが」

土屋政雄訳)

アクセルは妻を「お姫様(Princess)」と呼びます。 

竜を倒せばなにかが変わるのか。封印された忌々しい過去とは何だったのか。視界の利かないイングランドの丘陵地帯をさまようように、読み進めるほうも謎めいたまやかしに包み込まれていくのを感じます。こちらはサー・ガーウェインによる魔術師マーリンの追憶。なにか不穏なことが隠されている匂いがします。

マーリン殿!たいした男だった。一度、この人は死神にすら魔法をかけるのかと思ったが、最後はやはり死神の軍門に下ってしまわれたか。いまは天国におられるのやら、地獄におられるのやら。アクセル殿に言わせれば悪魔の召使だったそうだが、あの方の力は神を喜ばせるためにもよく使われていた。それに、勇気のない方ではなかったことも言っておかねばならぬ。

土屋政雄訳)

  この物語で描かれるのは、キャメロットの壮麗な社交場でも騎士道の恋愛でもなく、王国の繁栄の背後にあった残虐、終わりない戦いの連鎖、身近な人との間にもあるどうしようもない隔絶などです。平和とは何か、などさまざまなことを考えさせてくれる作品。夫婦のやりとりに注目しながら読んでみてください。

 

 二冊目は趣向を変えて、夏目漱石の『薤路行(かいろこう)』という短編。全集に掲載されているほか、青空文庫などでも読むことができます。

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  『薤路行』は漱石の初期の作品で、イギリス留学時代に発想を得たのか、『倫敦塔』にも見られるような格式高くいかめしい書き口が特徴的です。題材となっているのは、王妃グィネヴィアとランスロット、予言者シャロットの女、そしてランスロットが北方の遠征先で出会った「美しい少女」、エレーンの運命。

 シャロットの女とエレーンは先ほどのあらすじには登場しませんでしたが、二人はいわばアーサー王物語の本筋から枝分かれした、外伝に登場する人物たちです。

 『薤路行』のランスロットは王妃グィネヴィアと密会していたせいで北方の戦いに遅れ、身分を隠して参戦することにします。その道中で出会ったのが、純朴で世間知らずな少女エレーンです。彼女は騎士の姿にすっかり心を奪われてしまいます。

可憐かれんなるエレーンは人知らぬすみれの如くアストラットの古城を照らして、ひそかにちし春の夜の星の、紫深き露に染まりて月日を経たり。う人はもとよりあらず。共に住むは二人の兄とまゆさえ白き父親のみ。
「騎士はいずれに去る人ぞ」と老人は穏かなる声にて訪う。
「北のかたなる仕合に参らんと、これまではむちうって追懸けたれ。夏の日の永きにも似ず、いつしか暮れて、暗がりに路さえわかれたるを。――乗り捨てし馬も恩にいななかん。一夜の宿の情け深きにむくいまつるものなきを恥ず」と答えたるは、具足を脱いで、黄なるほうに姿を改めたる騎士なり。

 こうして読んでみると、ほぼ古文、というより漢文の書き下し文ですね。

 エレーンはランスロットに思いを込めて赤い絹の袖を手渡し、武運を祈ります。そのおかげでランスロットも戦いで華々しい活躍を見せますが、シャロットの女の呪いによってランスロットはその後病に伏し、エレーンも忘れられた身をつらく思って命を絶ちます。こちらは、エレーンがみずからの死後に棺を舟に乗せて流してほしいと遺言するシーンです。

「息絶えて、身の暖かなるうち、右の手にこのふみを握らせ給え。手も足も冷え尽したる後、ありとある美しききぬにわれを着飾り給え。隙間すきまなく黒き布しき詰めたる小船こぶねの中にわれを載せ給え。山に野に白き薔薇ばら、白き百合ゆりを採り尽して舟に投げ入れ給え。――舟は流し給え」
 かくしてエレーンは眼を眠る。眠りたる眼は開くなし。父と兄とは唯々いいとして遺言のごとく、憐れなる少女おとめ亡骸なきがらを舟に運ぶ。

 かなわない恋に破れて命を縮め、亡き後に花の積まれた小舟で流されてゆく少女、というテーマは画題にも好まれ、特にラファエル前派と呼ばれる画家たちがこぞって描きました。

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ジョン・アトキンソン・グリムシャウ作  1836-1893年

 ここから先はわたしの邪推かもしれないのですが、この場面を読んで思い出した漱石の句があります。

有る程の菊抛(な)げいれよ棺の中

 親交のあった大塚楠緒子(おおつかくすおこ)という女性が亡くなった時に、漱石が詠んだ句です。『薤路行』が書かれた五年後のことです。楠緒子は東京控訴院長・大塚正男の娘で、漱石の学生時代には、彼女との結婚話も持ち上がっていました。

 そんな彼女を悼む一句に、棺を花で充たすよう懇願したエレーンの姿が重なります。グィネヴィアとランスロット、エレーンの関係に自分たちをそっとなぞらえたのかもしれないなどど、想像してしまいます。

 今日はここまでにします。読んでくださってありがとうございます。

 

~おまけ

魔法の島フィンカイラ (マーリン 1)

魔法の島フィンカイラ (マーリン 1)

 

  暇つぶしに読める小品でもなんでもないけれど、わたしが好きなマーリン伝説のファンタジー(全五巻)。世界観と日本語の翻訳が秀逸で、子供のころ夢中になって読みました(個人的には、ハリーポッターと同じくらい有名になってほしい)。巻頭についた魔法の島の地図や、ところどころに銘うたれる予言めいた言葉など、冒険心をくすぐる細部の装丁が素敵です。神秘と不思議の世界に浸りたいときには是非。

#4 桜花~『桜の樹の下には』/『桜の森の満開の下』

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 今年、関東の桜は早く咲き、早く散ってしまいました。日本人は古くから、桜という花が特別を存在と考え、様々な感情を重ねてきました。桜前線なんて言って、お花の開花状況を天気予報で報じるのは、日本くらいかもしれません。それくらい桜の花に執着し、一喜一憂し、心を奪われる。

 儚さや命の短さ、一瞬の情熱とも結びつけられる桜ですが、今回取り上げるのは桜の花と狂気です。一斉に咲く桜の花が美しいあまり、昔から人の気を迷わせるものとして、妖しいもの、畏れるべきものと思われた側面もありました。普段は何の木なのか気にも留めなかった街路樹が、春になると一度にほころび、さくらだったのだと気づく。桜の樹に囲まれると、なんだか天地や方向、道理の感覚をうしなってしまうような、いつもと違う気持ちになってしまうのもわかる気がします。

 

 一冊目は『桜の樹の下には』。梶井基次郎による、二ページほどの短い小説です。全集などにも収録されているほか、現在はkindle青空文庫でも読むことができます。

桜の樹の下には

桜の樹の下には

 

 熱に浮かされたように一息にまくしたてる冒頭は有名です。

桜の樹の下には屍体が埋まっている!

これは信じていいことなんだよ。何故って、桜の花があんなにも桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だった。しかし今、やっとわかる時が来た。桜の樹の下には屍体が埋まっている。これは信じていいことだ。

 桜の花のあまりの美しさに、心穏やかにはいられず、美しいがゆえの焦燥や不安に掻き立てられてしまう。花がこれだけの影響力を持つのだから不思議ですが、この感情に少し共感できてしまうのもわかります。『俺』は桜の樹の下に屍体が埋まっていると「信じる」ことで、大いに納得する。そうでもしないと、あまりの美しさが不安で仕方ない、という気持ち。

この溪間ではなにも俺をよろこばすものはない。うぐいす四十雀しじゅうからも、白い日光をさ青に煙らせている木の若芽も、ただそれだけでは、もうろうとした心象に過ぎない。俺には惨劇が必要なんだ。その平衡があって、はじめて俺の心象は明確になって来る。俺の心は悪鬼のように憂鬱に渇いている。俺の心に憂鬱が完成するときにばかり、俺の心はなごんでくる。

 うすばかげろうの死体は玉虫色に光る水になる。桜もきっと、根の下に死体を抱え込んでいるからこそ美しいのだと、『俺』は「信じる」。そう思わなければ、説明のつかない桜の美しさは、この人物を圧倒してしまうのでしょう。

 たったいま見出した「真理」のようなものを、あせって友に報告するような口ぶりが印象的です。ただ落ち着いてはいられない、いつもどおり冷静とはいかない、桜による人の惑いが良く伝わってきます。

 短い作品から抜粋して引用するのはなかなか大変。青空文庫などを開いて、ぜひこの際読んでみてください。読み終えるのに、五分もかからないはずです。

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 二冊目は坂口安吾の『桜の森の満開の下』です。伊勢物語を思わせるようなお話で、こちらも通勤や待ち時間の合間にさっと読める長さです。

桜の森の満開の下 (講談社文芸文庫)

桜の森の満開の下 (講談社文芸文庫)

 

  山賊をも惑わせる満開の桜の森。

 花の下では風がないのにゴウゴウ風が鳴っているような気がしました。そのくせ風がちっともなく、一つも物音がありません。自分の姿と跫音(あしおと)ばかりで、それがひっそり冷めたいそして動かない風のなかにつつまれていました。花びらがぽそぽそ散るように魂が散っていのちが段々衰えていくように思われます。

 血も涙もなく、旅人を襲っては身ぐるみをはぎ容赦なく斬り捨ててきた山賊にしてみても、満開の桜の下は普段と様子が違って恐ろしい。ある日、山賊の男は通りかかった男を襲い、その美しい妻である女を奪います。

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 女はただの女ではありませんでした。山賊の男のもとにいた七人の妻を、一人を残してみんな男に殺させ、都へ住まいを移すと、男が盗みに入った邸宅の住人の首を欲しがるようになります。男は女の不思議な魅力に取りつかれ、女がままごとの「首遊び」に興じるかたわら、夜な夜な無為に人をあやめる日々。とうとう女を振り切らなければと心を決め、女をおぶって桜の下を、もとの山中の家へ戻ろうとします。

男は満開の花の下へ歩きこみました。あたりはひっそりと、だんだん冷めたくなるようでした。彼はふと女の手が冷たくなっているのに気づきました。俄に不安になりました。とっさに彼には分りました。女が鬼であることを。突然どッという冷たい風が花の下の四方の涯から吹きよせていました。

 背筋の寒くなるような、美しいけれど恐ろしい描写です。

桜の森の満開の下』は、野田秀樹さんの作・演出で舞台化され、シネマ歌舞伎として映像化もされています(キャストの歌舞伎俳優陣が豪華)。予告編では、ステージ上に桜の花びらを散らし、鬼の狂気をお面で表しているのがわかります。女が我に返る場面なのか、鬼の面がはたと落ちて女の美しい顔に戻るという演出が印象的です。いずれ見てみたいと思います。

野田版 桜の森の満開の下 | 作品一覧 | シネマ歌舞伎 | 松竹

  余談ですが、鬼のお面って人間離れした恐ろしい形相をしているのに、それが人間の表情と重なると、切ないような、やるせないような、そこはかとない人間らしさを孕んでいるように見えて奥深いと思います。能面や歌舞伎の隈取りもそうですが、誇張された表情や形式化された感情表現の中に、誰もがもっている世俗のさまざまな「思い」が包含されている気がしてきます。

 

 桜と能といえば、靖国神社では毎年四月初旬に『夜桜能』が催されています(わたしも実際には行ったことがないのですが…)。 夜間にかがり火を焚いて披露する能は宗教行事としての歴史が長いようです。暗闇に能楽堂が浮かび上がるという舞台の設定は、余分な背景を視界から隠すことで、要素をそぎ落とした能の世界観にひたるのにふさわしい空間になっている気がします。


~おまけ

 満開の桜と異世界とのつながりというテーマで思い出すのはジブリの『かぐや姫の物語』。さくらいろの着物を羽織って、満開の花の下を嬉しそうに舞うかぐや姫の姿が心に迫ってきます。今日も読んでくださってありがとうございました。

かぐや姫の物語 [DVD]

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  • 発売日: 2014/12/03
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#3 箱人間~『箱に入った男』/『箱男』/『箱女』

 

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 箱人間という、物騒なタイトルをつけました。検索にかけると、箱から霊が出てくるホラーや、なんだかいかがわしいコンテンツが表示されるのですが、今日のテーマを端的に表す言葉として、びくびくしながら使います。今日は箱人間に関する作品です。

 では穏やかなところから、一冊目、アントン・チェーホフの『箱に入った男』。ロシア文学で短編の名手とされる作家の作品です。

  全集にも載っている作品ですが、今回私が手に取ったのは、中村喜和訳、イリーナ ザトゥロフスカヤ・絵の単行本です。面白いのは、本の見開きというのか、中央部分、綴じ目の辺りにモノクロの骨太な挿絵が入っていること。キャンバスの布目が透ける素朴で粗削りなタッチによって、眼鏡やこうもり傘など、物語に登場するモチーフが一つ一つ描かれます。

 

 「箱に入った男」は、ベリコフという名のギリシャ語教師のあだ名です。ベリコフは、題の通り、持ち物すべてに外界からの覆いを掛け、思考も型にはまって柔軟性がなく、あらゆる逸脱や例外に耐えられないような人物です。

こうもりには袋をかぶせ、時計は黄色い革袋に入れ、鉛筆をけずろうとしてナイフをとりだすのを見ると、ナイフが小さなサヤに収まっている、というわけです。顔さえ袋に入っているようでした。襟を立てて、いつも顔をかくしていたのです。(…中略…)ひと言でいえば、この男には身のまわりを膜で包んでおこう、箱をつくってとじこもり、外界の影響を受けないですまそう、というような強い気持が絶えずみとめられたのです。

  彼は、いわば町の厄介者です。規範や通告を杓子定規に守り通し、他の人にも押しつけ、ルールからの違反を認めると上司に申告する、面倒でつき合いづらい人物。町の人々は彼の態度にびくびくしながらも困り果てています。皆は、彼のせいで町中が重苦しい空気になっているのだと考えるようになります。

 

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 しかし、結婚をめぐる一連の事件の後でベリコフがいなくなると、晴れ晴れとした解放感の後にやって来たのは、また重苦しい日常が続くということへの気づきでした。 

私たちは町で狭苦しいところに暮らし、要りもしない書類をつくり、トランプ遊びをしています。これも箱ではありませんか。一生を怠け者や訴訟狂いや愚か者や引きずり女たちのあいだで過ごし、さまざまな空疎なことをしゃべったり聞いたりしています。これも箱ではありませんか。

  チェーホフにとって、箱というのは鍵となるモチーフのようです。郡伸哉さんの『チェーホフ 短編小説講義』(彩流社)では、こう述べられています。

「箱」は、チェーホフの作品を特徴づける概念の一つとして、これまでも広く用いられてきた。チェーホフの登場人物たちは、外界の危険を避けてひたすら安住したいという欲求、あるいは逆に、閉塞感をもたらす場所からとにかく逃れたいという欲求を強くもっている。

 『箱に入った男』では、滑稽なほど過剰な自己防衛と、過剰な規範意識をそなえた人物が、わたしたちが日々捉えられている見えない規範、タブーや束縛、限界や苦々しい欺瞞について、思いを至らせてくれるような気がします。

 たとえば今でも、社会で「当たり前」とされていることに知らず知らずしばられ、逸脱してもいいとわかってはいても突飛なことは出来ず、誰のせいにもできない重苦しさをかかえて生きているということが、あるかもしれません。

 どんな国にも、どんな時代にも「箱」は存在し、それを無視できない人を鬱々した気持ちにさせているのかもしれないのだと、気づかせてくれます。

 

 二冊目、この辺りから少し異様な雰囲気が醸し出されてくるのですが、安部公房の『箱男』です。(文庫本にあるように、英訳名「The Box Man」と書かれると多少シュールなのですが。)

箱男 (新潮文庫)

箱男 (新潮文庫)

 

  前作の「箱」が象徴だとすると、こちらの「箱」は正真正銘の段ボール箱です。冷蔵庫の空き箱のような段ボールを常に頭からかぶり、目の部分だけをくりぬいた覗き窓から世界を見ながら、都会を徘徊する『箱男』。

 《ぼくの場合》

 これは箱男についての記録である。

 ぼくは今、この記録を箱のなかで書きはじめている。頭からかぶると、すっぽり、ちょうど腰のあたりまで届く段ボールの箱のなかだ。

 つまり、今のところ、箱男はこのぼく自身だということでもある。箱男が、箱の中で、箱男の記録をつけているというわけだ。

 この実験的長編作品は、箱の作り方の指南から始まります。それから、箱をかぶり都市の中で路上生活を送るという奇怪な生き方になぜか捉われて、いつの間にか箱男になってしまった人の話、それに贋物の箱男、魅惑的な看護婦に抱く愛情、さらに命を狙われる箱男の話なんかが続きます。

 それにしても、なにを好きこのんで、そんな箱男をわざわざ志願したりする者がいるのだろうか。不審に思うかもしれないが、その動機たるや、呆れるくらい些細な場合が多いのだ。(中略)

一度でも、匿名の市民だけのための、匿名の都市―扉という扉が、誰のためにもへだてなく開かれていて、他人どうしだろうと、とくに身構える必要はなく、逆立ちして歩こうと、道端で眠り込もうと、咎められず、(…中略…)いつでも好きな時に、無名の人ごみにまぎれ込むことが出来る、そんな街―のことを、一度でもいいから思い描き、夢見たことのある者だったら、他人事ではない、つねにAと同じ危険にさらされているはずなのだ。

 この本は、著者が判然としない不連続な記述、新聞記事の一部やメモ書き、モノクロ写真を織り込みながら進んでいきます。ばらばらになった現実や想像が錯綜する感じがあり、読み進めるうち、どこまでが願望や夢想で、どこまでが現実なのか、正気なのか狂気に捉われているのか、眠っているのか醒めているのか、わからなくなってくるような。

 

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 同時に、どちらが見ている方でどちらが見られている方なのか、どちらが書いている方でどちらが書かれている方なのかさえも自信がなくなって、物事の前提がいつの間にか揺らいでくる。下の引用は、夢見ることと醒めることについて、箱男が考えているところです。

貝殻草のにおいを嗅ぐと、魚になった夢を見ると言う。(中略)

貝殻草の夢が、やっかいなのは、夢を見ることよりも、その夢から覚めることのほうに問題があるせいらしい。本物の魚のことは、知るすべもないが、夢の中の魚が経験する時間は、冷めているときとは、まるで違った流れ方をするという。速度が目立って遅くなり、地上の数秒が、数日間にも、数週間にも、引き延ばされて感じられるらしいのだ。

 破綻しているように見えて、イメージがつながったり途切れたりするなかでゆるやかなまとまりを持った作品になっている。異様な世界、自分とはかかわりのない人たち、と線引きをしたくなるけれど、いつでもだれでも陥ってしまう可能性のある、狂気の崖のふち。その中をおそるおそる覗き込んでいるような気持になります。

 

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 最後に紹介するのは、渡辺松男さんの『箱女』という、短歌の連作です。『歩く仏像』という歌集に収録されています。残念ながら絶版になってしまったようで、Amazon楽天では商品が見つけられませんでした。わたしは、地方の図書館でこの本を見つけました。

 十の短歌からなる連作は、二つ目に紹介した『箱男』から着想を得て書かれたそうです。なんともいえない状況ですが、「われ」と「われの恋人」はどちらも段ボール箱なのです。荒唐無稽にも思える設定だからこそ、なんだか感情の不器用さや、すれちがいが、素朴に浮き上がってくる気がします。

さみしそうにわれの恋人箱女側面をそっとすり寄せてくる

箱女を抱こうとする箱男懸命に手を四角に伸ばす

さみしさでいっぱいだよとつよくつよく抱きしめあえば空気がぬける 

 不思議な余韻が残るところですが、今日はここまでにします。読んでくださってありがとうございます。

 

~今日のおまけ

お菓子の箱だけで作る空箱工作

お菓子の箱だけで作る空箱工作

  • 作者:はるきる
  • 発売日: 2019/07/22
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

  リフレッシュに空き箱工作でも。身近なお菓子の箱が魅力的な立体作品に生まれ変わる、夢のようなアイディアの数々。想像が広がって楽しい一冊です。

#2 べつの言語で~『べつの言葉で』/『日本語を書く部屋』/『エクソフォニー』

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 新しい言語を学ぶことは、新しい扉をひらくようにまったく別の世界観を見せてくれる。たとえば、虹の色の数が文化によって七色だったり、八色だったり、はたまた三色だったり。日本は伝統的に魚料理が食べられてきたので魚に関する語彙が豊富だけれど、西欧ではお肉の部位に細かい分類の言葉があたえられていますね。

 母語とは違う言葉で語ることで、普段では言葉にしにくいことが表現できたり、とらえられない概念に触れられることがあります。今日は、母語ではない他言語をまなび、さらにその言語で書くという挑戦についての本を取り上げきます。

 

 一冊目は、ジュンパ・ラヒリさんの『べつの言葉で』。ピューリッツァー賞を受賞したインド系アメリカ人女性作家によって、イタリア語で書かれた異色のエッセイです。

べつの言葉で (新潮クレスト・ブックス)

べつの言葉で (新潮クレスト・ブックス)

 

  四十歳を過ぎたころ、作者は英語と祖国のベンガル語という二つの母語を離れ、「イタリア語で書きたい」という欲求を追ってローマに移住します。作家が新たな言語のなかに踏み出し、その言語でしか書けない、その言語だからこそ書きたい物語をつくっていく過程が綴られます。

 イタリア語で書くとき、わたしは自分を侵入者かペテン師のように感じる。うわべだけの不自然なことをしているように思える。境界を越えてしまい途方に暮れていること、逃亡中だということに気がつく。自分が完全な異邦人だということに。(中略)

 わたしの第一言語であり、それに依存し、それによって作家となった言語から離れ、イタリア語に専念しようとする衝動はどこから来るのだろうか?

 作家にとって商売道具である第一言語、それから離れて別言語の世界に踏み入れることは、言いたいことを表せない、自分の文体を築けないもどかしさや、屈辱感をともないます。しかしそれは同時に変身であり、解放でもあると筆者は言います。

「新しい言語は新しい人生のようなもので、文法とシンタックスがあなた を作り変えてくれます。別の論理、別の感覚にすっと入り込んでください」この言葉がどれほどわたしを勇気づけてくれたことか。(中略)だが、この新しい始まりという変化は代償が大きい。ダフネのように、わたしも動きが取れなくなっている。(中略)生まれ変わり、閉じ込められ、解放され、居心地の悪い思いで。

 エッセイの間に、筆者がイタリア語で書いた短い小説『取り違え』『薄暗がり』が掲載されています。どちらも日本語に翻訳された状態で読むしかないのがはがゆいところですが、もがきながらも筆者がつかもうとした感覚を、少しは追体験する気持ちになれるかと思います。

 

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 二冊目に紹介する本は、リービ英雄さんの『日本語を書く部屋』。

日本語を書く部屋 (岩波現代文庫)

日本語を書く部屋 (岩波現代文庫)

 

 リービ英雄さんは、アメリカ生まれの作家で、万葉集日本書紀をはじめとする日本文学についての本を著すかたわら、日本語でエッセイや現代小説を執筆し、ワールドフィクションの書き手として評価されています。1996年には、西洋出身者が日本語で書いた現代文学作品として初めて『天安門』が芥川賞候補に選ばれました。

 『日本語を書く部屋』は言語を超越することや、日本文学への思いをつづったエッセイです。越境のパイオニアともいえるリービさんですが、文化や言語を越えて日本語をあつかう作家として、「越えてきた者の記録」という一遍が印象的です。

越境は、ある文化の外部にいるものにだけ起こるのではない。日本人として生まれた人でも、日本語を書くためには、一度、「外国人」にならなければだめなのだ。「当たり前な日本語」の「外」に立って、自分の言葉に異邦人としてたいする意識を持たなければよい作品は生まれない。これは、一流と呼ばれる日本の作家なら誰もが感じている今日的な表現の問題である。

 他国と陸続きの境界線を持たない島国として、ある時は鎖国までして外国との境目や違いを意識してきた日本。だからこそ存在する厳格な「越境」の感覚や、一度外に立って言語を見ることの意義が語られています。

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 「コトバの所有権」について書かれた部分があります。

 「日本語の感性や感覚は、日本に生まれ育った者にしかわからない」という決めつけ。その背後には、「言語=人種=文化=国籍」という考え方があると言います。

日本語で書くという、日本の生活者にとっては当たり前な行為が、いったんぼくが日本語を使って表現するとなると、そのイコール・サインを破ろうとしている、自分の意図とは関わりなく、そう解釈されてしまうことを認識せざるをえなかった。

(中略)しかし、単一民族という窮屈な現代イデオロギーから解放されて、民族と関わりなく世界の中のもう一つの偉大な言語として輝きはじめたという意味では、「日本語の勝利」はこの時代だからこそ可能になった課題であると言うべきではないだろうか。

 「言葉の壁」という表現がありますが、言葉が使える/使えないという段階の次には、多様な言語のあり方を受け容れる、受容の壁があるのだろう、と考えさせられます。グローバル化、と標語ばかりが叫ばれている今日この頃ですが、文化を多角的にとらえる視点というのも、世界に開かれた国を作るのに大切だと思いました。

 ここにリンクを貼ったのは岩波現代文庫版ですが、岩波書店の単行本版の表紙には実際の「日本語を書く部屋」、リービさんのかつての仕事場と思われる写真が使われています。畳に置かれた革椅子、扇面の掛け軸、ワイン瓶がいくつか、墨汁の染み。この場所での執筆の日々に思いを馳せます。

 

 三冊目は、多和田葉子さんの『エクソフォニー―母語の外へ出る旅』。

  多和田さんは、ドイツ文学者で、日本語ドイツ語の両方で創作活動をされています。題名にもなっている「エクソフォニー」は「フォニー(言語・言葉)」と「エクソ(外)」の組み合わせで、「母語の外に出た状態」という意味。この本では言語をその枠組みの外からながめることで得られる発見がたくさん盛り込まれています。

 慣用句の言い回しや、物の数え方、方言へのアプローチ。母語の中ではあたりまえに感じられることも、ひとたび外部の視点をもってながめると、新たな表情を見せてくれます。多和田さんはドイツ語と日本語の間の領域の視点から、さまざまな楽しい発見を紹介しています。

ドイツに来たばかりの頃、すごく印象深かったのが、tote Hose(死んだズボン)という言い方だった。地方都市などに行って、夜も十時くらいになると、もうレストランや飲み屋がみんな店じまいして、ディスコや映画館などはもともとないので、人通りもなくなり、退屈だったりすると、「あそこは十時を過ぎると死んだズボンだ」などとみんな言う。

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 「エクソフォニー」は外国語を学ばなければ体験できないことかと思いきや、多和田さんは日本語という言語の中でも視点を変えることで新たな発見を得られると言います。

「からだ」の訳語はKörperだけれども、両社は全く違う。 日本語ではよく「おからだに気をつけて」と言うが、それを直訳して、Körperに気をつけてください、と言ってみると、ひどく変である。日本語でも、もし誰かに「肉体にお気をつけて」などと言われたら、どきっとするだろう。

 

 言われてみれば「確かに…」と思うところですが、言語の内部で暮らしているとなかなか気づかないことですね。誰にでも開かれている「エクソフォニーの旅」、ちょっと興味が湧いてきます。

日本でドイツ語を勉強している人にも、ドイツ語で日記をつけることを勧めたい。文法、スペル、その他、いろいろ間違いを犯すかもしれないが、そういうことは取り敢えずあまり気にしないで、書きたいことをなるべく楽しんで書く。面白いのは、日本語では恥ずかしくて書かなかったかもしれないことを平気で書けることもあるということである。

 今回は「べつの言語で」というテーマで本を見てきましたが、いかがでしたか。日本語や外国語にたいしての味方が少し変わるアイディアの提案でした。読んでくださってありがとうございます。

 

~今日のおまけ

  肩肘はらずに読める一冊。題名通り、可愛らしいイラストとともに世界のことわざを紹介した絵本です。「あなたのレバーをいただきます」「ロバにスポンジケーキ」など、意味を知ったら自慢したくなるものばかり。飾っておいてもかわいいので、本好きさんやお子さんへのプレゼントにもぴったりだと思います。