#14 句読点の妙~『春琴抄』/『窓の魚』

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 こんにちは、久しぶりの記事投稿になりました。今回は、表現からみたテーマに立ち返り、句読点の使い方がちょっと特徴的な二作品を取り上げたいと思います。句読点は意味の区切りや文の終わりをわかりやすく示す役割だけでなく、文章全体のリズムを左右するものだと思います。句読点の特徴によって、文章の持つ音楽性が変わってくることを感じながら、読み進めていきます。

 まず一冊目に紹介するのは谷崎潤一郎の『春琴抄』。この小説は、盲目の三味線奏者・春琴と、彼女の弟子でもあり身の回りの世話をする丁稚の佐助の奇怪な愛の形をを描いた作品なのですが、極端に句読点を省いてある点でも特徴的です。文章を読みやすくする役割の読点「、」や「かぎかっこ」がほとんど見られず、句点もないところがあるので文の区切りさえ怪しくなってきます。

 その書き方によって、登場人物との間にある冷たい距離を感じるとともに、読経を聞いているような、おどろおどろしさまで感じられてきます。墨書きの草書の経文を聞かされているような、際限ない帯を手繰っているかのような、仏教的な静の感覚の中で物事が進んでいく冷たさを感じるところもあります。

 『春琴抄』は、春琴と温井検校の墓の描写から始まります。語り手は、春琴に生涯寄り添った温井検校(幼少期の名は佐助)が彼女のことを記した『鵙屋春琴伝』という読みもとを紐解く形で、二人の奇異な関わりを語っていきます。


 大阪の薬屋の娘として生まれた春琴は、美貌ながらも子供の時に失明し、以来三味線や琴といった音楽の道に励みます。稽古へ赴くのも、身の回りの事をするのも佐助という名の丁稚が手伝いました。佐助は奉公人として美しい春琴を心から慕いながら、彼女の目となり手足となって過ごし、春琴も佐助をほかにいない存在として扱いました。春琴は甘やかされたお嬢さんらしく強情で気ままなところがあり、佐助に無理を言うこともしばしばでしたが、佐助はそれを苦にするどころか、春琴が強く当たるのを甘えられているとも捉え、一種の恩寵とまで感じていました。

四人の姉妹のうちで春琴が最も器量よしという評判が高かったのは、たといそれが事実だとしても幾分か彼女の不具を憐れみ惜しむ感情が手伝っていたであろうが、佐助にいあってはそうではなかった。後日佐助は自分の春琴に対する愛が同情や憐愍(れんびん)から生じたという風に云われることを何よりも厭いそんな観察をする者があると心外千万であるとした。わしはお師匠様のお顔を見てお気の毒とかお可哀そうとか思ったことは一遍もないぞお師匠様に比べると眼明きの方がみじめだぞお師匠様があのご気象とご器量で何で人の憐れみを求められよう佐助どんは可哀そうじゃとかえってわしを憐れんで下すったものじゃ、わしやお前たちは眼鼻が揃っているだけで外の事は何一つお師匠様に及ばぬわしたちの方が片羽ではないかと云った。ただしそれは後の話で佐助は最初燃えるような崇拝の念を胸の奥底に秘めながらまめまめしく仕えていたのであろうまだ恋愛という自覚はなかったであろうし、合っても空いては頑是ないこいさんである上に累代の主家のお嬢様である佐助としてはお供の役を仰せ付かって毎日一緒に道を歩くことの出来るのがせめてもの慰めであっただろう。 

 注:佐助は春琴を「お師匠様」と呼びます。また、「お嬢さん」という意味で親しく「こいさん」と呼ぶこともあります。

 句点がないことで、「主家のお嬢様である佐助としては~」など修飾関係がわからなくなってしまう所があります。その境目のなさが、主従の別、主客の別を曖昧にさせ、春琴と佐助が表裏一体の存在に感じられてくる。

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 佐助は春琴に気に入られ、彼女に師事して三味線を習い始めますが、気性の激しい春琴の稽古は折檻になることもありました。しかし音曲の稽古という厳しく特別な場を介し、また盲目の主人と手引きをする奉公人として、二人は特別な愛の関係で結ばれてゆきます。結婚こそしませんでしたが二人の仲はだれも疑わないものになりました。 

 春琴は四十歳を過ぎても、持ち前の美貌を保っていましたが、激しい気性もあり人に憎まれることもありました。ある日、何者かが春琴の屋敷に侵入し彼女に熱湯を浴びせかけるという事件が起きました。春琴は顔に無惨な火傷を負い、人を誰も近くに寄せなくなります。盲目の春琴ですが、自分の姿を確かめられないまま佐助に痛々しく醜い姿を見せるのを嫌がったのか、それを察した佐助は二度と彼女の姿を見ずに済むよう、自らの眼を針で突いて失明するのでした。

程経て春琴が起き出でた頃手さぐりしながら奥の間に行きお師匠様私はめしいになりました。もう一生涯お顔を見ることはござりませぬと彼女の前に額ずいて云った。佐助、それはほんとうか、と春琴は一語を発し長い間黙然と沈思していた佐助はこの世に生れてから後にも先にもこの沈黙の数分間ほど楽しい時を生きたことがなかった昔悪七兵衛景清は頼朝の器量に感じて復讐の念を断じもはや再びこの人の姿を見まいと誓い両眼を抉(えぐ)り取ったと云うそれと同期は異なるけれどもその志の悲壮なことは同じであるそれにしても春琴が彼に求めたものはかくのごときことであったか過日彼女が涙を流して訴えたのは、私がこんな災難に遭った以上お前も盲目になって欲しいという意であったかそこまでは忖度し難いけれども、佐助それはほんとうかと云った短かい一語が佐助の耳には喜びに慄(ふる)えているように聞えた。

 春琴抄はある異様で極端な愛の形を描いた作品であり、「マゾヒズム」「窮極の耽美主義」と評されることが一般的です。ですが、文体自体は情熱的にたたみかけたり、烈しい言葉を連ねたり、まして感嘆符!や思わせぶりな…を使うこともなく、ある静けさを保っているのが印象的です。

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 二冊目、句読点(特に読点「、」)が多い作家として思い浮かんだのが、西加奈子さんです。読んでいる間から度重なる読点のリズムに翻弄され、読み終えたころには脳内の考えごとも「、」ばかりのモノローグに支配されてしまいます。ということで、西さんの作品の中でもわたしの好きな『窓の魚』を紹介します。

 舞台は、二組のカップルが一緒に訪れた温泉宿。楽しいはずの旅行なのにトウヤマとハルナ、アキオとナツの四人の間には微妙な不協和音が流れている。表立って反目するわけではないけれど、お湯の中で裸になると互いが匿し持っていた冷徹な慾や自意識が見え隠れする。

しばらくじゃばじゃばやっていると、ナツが急に、湯船に潜った。岩にお湯をかけ始めたり、やっぱり、何を考えているのか分からない。ナツ、と呼んでも、聞こえないのか、一向に出てこない。あんまり長い間そうしているから、不安になって覗き込むと、目を大きく開けて、空を見ている。

「ナツ?」

 湯船の中で白い肌が、ますます青白く光っている。ゆらゆらと揺れる髪の毛は、いつもの傲慢な硬さを見せないで、頼りなく、広がっている。

「あんた、死体みたいよ」

 そう言ったけど、ナツに聞こえないことは、分かっていた。

「ニャア」

 そのとき、猫の鳴き声が聞こえた。どきりとした。見回しても姿が見えなくて、気味が悪かった。

「ニャア」

  引用してみると、覚えていたよりも読点が多いというわけではない…。けれど一冊読み終えたころには、言葉のまとまりごとにうなずくようなリズムが身に着いてしまうんですよね。

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 物語は四人が順に語り手となり、同じ景色や場面を違った方角から語り直す形をとっています。読み進めると、お互いの会話がうまく聴きとれなかったり、意味を取り違えられていたり、見くびっていた相手に見透かされていたりしていたとわかる。四人は言葉レベルで確実にどうしようもなく擦れ違っているけれど、不思議なところで人を信じてみようと思う強い気持ちが現れたりもする。

「……た?」

 ハルナが耳元で、何か言った。唇が近すぎて聞こえなかったし、聞く気もなかった。

「……ちゃった?」

 ハルナの声は、さっき湯船で、俺に声をかけたアキオの声にそっくりだった。何かを請うような、気色の悪い声に、そっくりだった。

「トウヤマ君」

 そのとき、また携帯が鳴った。

「トウヤマ君」

 もしかしたら、あいつは俺のことを、好いているのではないか。

 それは、願望ではなかった。予感でもないし、ましてや確信でもなかた。ただ、ぶるぶる震えている携帯を見ていると、そう思った。どろどろに酔って、携帯を耳に当てているあいつの姿は、俺の胸をつかんで離さなかった。

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 人を傷つけてしまいたいという残酷な感情や、自分をぞんざいに扱う歪んだ承認欲求のようなもの、無感動のまま口の端だけ笑う荒んだ気持ち、そんな四人の傍らで美しい女性の死体が見つかる…。同じ日に宿泊していた老婦人の記述はこんな通り。

女の人の死体が浮かんでいたという、あの池の上を、歩いたのだという事実、宿の浴衣が、鯉と一緒に、ゆらゆらと揺れていたのだと思うと、それはひどく、美しい景色のような気がしました。そして、その女の人が、出来るなら、私が露天風呂で会った、あの女の子であればいいと、思いました。

 細くて、わずかな翳りがあって、真っ黒い髪が濡れるのもかまわなかった、あの子なら、きっと、橋の下でたゆっているのが似合うわ、とそんな不謹慎なことを、思っていました。

 生きている四人の冷たい腹の内が明らかになるなかで、温泉宿の景色も手伝ってその死体の描写が一番綺麗な部分かも知れないと思ってしまいます。

 

 句読点のさじ加減で物語の音程が変わる、語り口のトーンが変わる。ちなみに短歌に句読点を持ち込むのはちょっと邪道なようです。ふつう韻文は韻文の枠組みのなかでリズムを成立させるのが一般的で、句読点は個性的な作風の人が巧く使わなければ作品を損なってしまうような気がします。有名どころでは、折口信夫さん(釈迢空)の短歌がこちらです。

葛の花踏みしだかれて、色あたらし。この山道を行きし人あり 

釈迢空全詩集

釈迢空全詩集

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 では今回は引用も長くなったので、こんなところで。読んでくださってありがとうございます。