#15 今、よみたい本~『となり町戦争』/『服従』/『The Journey』

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 今回は『今、よみたい本』という題で、2022年の立ち位置を考える本を二冊、紹介したいと思います。そのうち収まるのかなと楽観視していたコロナは依然として猛威を振るい、将来は暗雲に包まれている。その一方で、昨年になってアメリカのトランプ政権が集結し、2015年ごろに盛り上がった保護主義的な流れも答え合わせというか決算というか、ある程度の動きを振りかえる時期に来ている。ここまでとここからの数年間を見据える、2022年の読書のお供に。

 ここに来て強烈に感じるのは「分断」が色濃くなっていること。コロナが広まった当初は「病気は人を差別しない」と思われたのに、結局は経済力によってどんな治療が受けられるか、感染機会をどれだけ避けられるかに差が生まれる厳しい現実を目の当たりにしている。ステイホームを楽しもう、という積極的な流れも目新しさを失って、閉塞感と孤独感が際立っている。開放的なパーティーを開く奔放な他人を見つけようものなら、羨ましさと正義感と感染恐怖のない交ぜになった無慈悲な攻撃性を発揮せずにはいられない、近頃の世のなか。一度立ち止まって、社会をこんなにも苦しめているものの正体を、ちょっと静かに観察してみたい。

 一冊目は、三崎亜記さんの『となり町戦争』。不可解な設定ながら、それが現実 象徴的な ありありと現実に染み込んでくる印象を与える本だと思います。

 わたしの手元にある集英社文庫の背面に書いてある、あらすじはこちら。

ある日突然にとなり町との戦争がはじまった。だが、銃声も聞こえず、目に見える流血もなく、人々は平穏な日常を送っていた。それでも、町の広報誌に発表される戦死者の数は静かに増え続ける。そんな戦争に現実感を抱けずにいた「僕」に、町役場から一通の任命書が届いた……。

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 この本をめくっていて気づくのが、ところどころに町役場の行政的なフォームが挿入されていること。例えば、開戦を告げる町の広報誌の記事は、町内のお祭りの開催を知らせるかのように、こんなフォーマットに載せて書かれています(本物は、これがさらに二重線の四角で囲んであり、いかにも区役所や市役所の使いそうな形式)。

【となり町との戦争のお知らせ】

開戦日 九月一日

終戦日 三月三十一日(予定)

開催地 町内各所

内容  拠点防衛 夜間攻撃

    敵地偵察 白兵戦

 お問い合わせ 総務課となり町戦争係

 他にも、私物移動リストや戦争参加の任命書類が、よく見る形の書類フォーマットに収まって淡々と処理されていく。リアリティを伴ってこない「戦争」の実体に対して、これが「平穏」の形なのか、不思議な形で日常が延長しているから、この書類の先に人の命が左右される事態があるなんて、つくりごとに思えてくる。それでも自分の認知する外側で大切な物が奪われている現実がある。

僕は混乱していた。あの夜、僕は香西さんの指示どおりに逃げ回りながらも、何だかスパイ映画のようなスリルと興奮をあじわってさえいたのだ。そんな僕を逃がすために、佐々木さんの命が犠牲になったということが、理解できなかった。(中略)

「わからない、ぼくにはあいかわらずよくわからない。人が一人死んだ。ぼくのために。戦争の意味がまったくわからない。ぼくがスパイ映画気取りで逃げまわっていた間に……。でもそのことへの罪悪感がまったくわいてこない。あまりにもリアルじゃないから。まるで遠い砂漠の国で起こった戦争で、死者何百人ってニュースで聞いてるみたいだ。(略)」

 続く部分も引用してみます。不可解な状況ながら、暗にわたしたちののうのうとした日常の本質をあぶり出すようで、はっとします。

「僕の目に見えるもの、見えないもの」に想いをはせた。香西さんが涙を流しているその「何か」を見極めようとした。香西さんも、今この戦争の中で何かを失おうとしているのかもしれない。僕は香西さんの、「失われゆくものに流された涙」をそっと口にふくんだ。夢の中の海の水とは違い、それはきちんと涙の味として、僕の一部となった。その涙の味だけが、今の僕にとってのリアルだった。

 傍らで確実に起こっている人の死や戦争、苦しみとパラレルな世界で何事もなく進行する日常が怖くもあり、それが実状だと思う部分もあり。他人への無頓着、無関心、それに自覚しながらの看過が描かれていて、突飛な設定ながらも考えさせられることが多い小説です。「リアル」と「リアリティ」。「現実・実状」と「実感・現実感」。必ずしも連動しないからこそ、想像力を持たなければと思います。

 

 二冊目はもう少し政治色が強いのだけれど、2016年ごろに世界中で大きな話題を空き起こしたミシェル・ウエルベックの『服従』。ウエルベックはフランスの作家・詩人です。

 この本は2015年の発売当初、世界中を議論に巻き込み飛ぶように売れました。アメリカでは自国優先の姿勢を取るトランプ政権が誕生し、フランスではマリーヌ・ルペン率いる極右政党の国民戦線が選挙でかつてないほど議席を伸ばした頃。イスラム国の台頭やテロの多発、移民問題の拗れから先進国にだんだんと保護主義の色が濃くなっていっていました。『服従』は、2022年のフランスを舞台として「イスラム教勢力がフランスの政権についた」世界を描きます。ちょうど今頃の話だと思うとどきりとします。小説通りの経過にはならなかったけれど、そのかわり世界はどんな道を選び、今に至ったのか。

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 この政治的動乱の一方で、主人公の大学教授は自身の存在や仕事に対して虚無感や閉塞感を抱いています。ユイスマンスを研究し博士号を取得したものの、文学の研究の真の価値は社会の中で評価されない。イスラエルに移住するという恋人と別れ、イスラム教をもとにした教育方針に従う同僚の教授や、新しい権力による変革に晒されながら、何が正しいことなのかに揺れ、立ち振る舞いを決められないままでいる。反発する者、受容する者、立ち去る者がいる中で主人公は取り残されて行きます。

 周知のことだが、大学の文学研究は、おおよそどこにも人を導かず、せいぜい、最も秀でた学生が大学の文学部で教職に就けるくらいである。それは明らかに滑稽な状況で、突き詰めると自己再生産以外の目的を持たず、有り体に言えば、学生の九五パーセント以上を役立たずに仕立て上げる機能を果たすだけの制度なのだ。(中略)つまり望みさえすれば、ぼくには大学教員になるチャンスがかなりある、ということなったのだ。ぼくの人生は、その単調さと、予測可能な凡庸さにおいて、一世紀半前のユイスマンスのそれに重なり続けていたことになる。

 この小説には、現実と地続きになっているような表現が度々登場します。例えば、党首のマリーヌ・ルペンの出で立ちや力強い態度は、ニュースで見て知っている姿から想像されて、あたかも2022年の彼女を描いたものに思われてきます。

 マリーヌ・ル・ペンは十二時半に反撃に出た。活発で、ブラシをかけたばかりの髪、パリ市庁舎の前でローアングルで撮られた彼女は、ほとんど美人と言っても良かった。それは彼女がそれまでに姿を現した時とは明白に対比をなしていた。二○一七年の転換期以来、この百パーセントフランス製の候補は、最高官職に達するためには、女性の場合必然的にアンゲラ・メルケルのような雰囲気を醸し出さなければならないのだと確信し、このドイツ首相の重々しい貫禄に匹敵しようと努め、髪型や服装を真似することまでしていたのだ。しかし、この五月の朝、彼女は運動初期を思い起こさせるような、燃え立つ斬新なエネルギーを再び見いだしたようだった。

 この小説は、フランス作家のユイスマンスキリスト教イスラム教教義に基づいた哲学的・宗教的考察が関わってくるので、特に後半部分は難解だと思います。主人公はもがきながら、社会と距離を置いたり教会を訪ねたりするけれど、大きな流れに逆らう術も、自分の存在価値も見当たらないというような、絶望的な雰囲気が続きます。

 最後に引用する部分は、イスラム教の考え方を主人公に説こうとする知人の台詞ですが、宗教的な考察を横に置いてみても、「人間の絶対的な幸福が服従にある」という言葉が非常な重みをもって響きます。博士号も取得し、深く広い知を持っている主人公が、その論理にさからう手立てをもっていないのが、象徴的だともいます。

「『O嬢の物語』にあるのは、服従です。人間の絶対的な幸福が服従にあるということは、それ以前にこれだけの力を持って表明されたことがなかった。それがすべてを反転させる思想なのです。わたしはこの考えをわたしと同じ宗教を信じる人たちに言ったことはありませんでした。冒涜的だと捉えられるだろうと思ったからですが、とにかくわたしにとっては『O嬢の物語』に描かれているように、女性が男性に完全に服従することと、イスラームが目的としているように、人間が神に服従することの間には関係があるのです。お分かりですか、イスラームは世界を受け入れた。そして、世界をその全体において、ニーチェが語るように『あるがままに』受け入れるのです。(略)」

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 さて、振り返ってみると、「服従」が出版された2015年から2016年にかけてはイスラム国の台頭が世界中を震撼させ、センセーショナルに取り上げられていました。テロに屈しないという決意や、自分も当事者だという共振の思いから、暴力に遭った都市の名を冠した「I am Paris」「I am Brussels」のスローガンを多くの人が掲げました。

 あの気運の高まりは、どこへ行ったのだろうと不思議になります。見えやすい、わかりやすい犠牲が表に晒されなくなったからと言って、紛争は終わらないしむしろ事態は悪化しているのに。わたしたちはどこかで惨事に馴れ、リアリティの薄れた物語の向こうに、誰かがいることを忘れがちなのではないかと危機感を覚えます。

 ちょっと重い回でしたが、いまと過去と未来を見据えて「分断」を考え直せればと思います。読んでくださってありがとうございました。

 ~今日のおまけ

 『ジャーニー 国境をこえて』(フランチェスカ・サンナ作、訳)という絵本があります。紛争により、家を追われた家族が命を守るために国境を越える旅が描かれています。色彩の豊かな、想像力を刺激する美しい絵なのですが、だからこそ眠っている間に瞼の奥で広がる不安や、見知らぬ土地に放り出される恐怖、終着点の見えない旅の途方のなさをよく表して、心が痛くなります。人々の暮らしがあったということ、今もあるということ。忘れずにいたいと強く思います。