#11 武士道からグローバリズムを考える~『武士道』/『新渡戸稲造はなぜ「武士道」を書いたのか』

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 オリンピック・パラリンピックが終わりました。多くの選手が活躍し、わたしも勇気や希望をもらいました。その一方で開催に向けての不祥事や懸念が相次ぎ、もやもやが多かったのも確か。特にせっかく日本の特色や文化を発信する場であった開会式・閉会式の演出にも影響が出てしまったことは、残念だと感じています。

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 オリンピック閉会式に、昼下がりの公園で着物でけん玉や縄跳びをして遊ぶ人たちを表現した一幕がありました。華やかで楽しい演出ではありましたが、強い違和感を感じてしまいました。確かに伝統的なものの組み合わせではあるけれど、現代人は今いちその価値を身をもって感じているわけではないし、「これが日本です」と対外的に発信したいかと言われると、なんか違う気がする。日本独特の感性とか、伝統の遊びとか、形ばかりでちょっと胡散臭いなあと思っていたところが、いよいよフジヤマ芸者的な、ショーケース用の取り合わせに変化している気がして。今日はちょっと辛辣。

 そんな中、今日取り上げたいのは新渡戸稲造の『武士道』。原文は英語で書かれているので、正確には『Bushido』。なぜこの本なのかというと「世界の中での日本人のありかたについて、ヒントをくれるから」。ビジュアル対訳版というものを見つけたので、今回はこの本を軸に読み進めたいと思います。

 奈良本辰也訳の『ビジュアル版 対訳 武士道』。他にはマンガ版や英語を学べるCD付きのものもあるそうです。こちらもリンクを貼っておきます。

 新渡戸稲造(1862-1933)は盛岡出身の教育者・思想家で、農業経済学などにも精通した人です。東京大学に入学したものの尊敬できる教授や学びがないと幻滅して渡米、学びを深め、後にヨーロッパへ渡り国際連盟の事務次長もつとめました。

 彼は序文に、この本を書いたきっかけとして、あるベルギーの著名な法学者と宗教について話した時の印象的な発見を記しています。

 "Do you mean to say", asked the venerable professor, "that you have no religious instruction in your schools?" On my replying in the negative, he suddenly halted in astonishment, and in a voice which I shall not easily forget, he repeated "No religion! How do you impart moral education?" 

 The question stunned me at the time. I could give no ready answer., for the moral precepts I learned in my childhood days were not given in schools,; and not until I began to analyse the different elements that formed my notions of right and wrong, did I find that it was Bushido that breathed them into my nostrils. 

 「あなたがたの学校では宗教教育というものがない、とおっしゃるのですか」とこの高名な学者がたずねられた。私が、「ありません」という返事をすると、氏は驚きのあまり突然歩みをとめられた。そして容易に忘れがたい声で、「宗教がないとは。いったいあなたがたはどのようにして子孫に道徳教育を授けるのですか」と繰り返された。

 そのとき、私はその質問にがく然とした。そして即答できなかった。なぜなら私が幼いころ学んだ人の倫たる教訓は、学校でうけたものではなかったからだ。そこで私に善悪の観念をつくりださせたさまざまな要素を分析してみると、そのような観念を吹きこんだものは武士道であったことにようやく思い当たった。

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 新渡戸稲造は日本文学や封建的な考え方に親しんでいた一方、16歳で入信した敬虔なクリスチャンでもありました。だからこそこの教授の指摘にははっとさせられたのだと思います。

 前半では武士道の起源をたどる道筋として「仏教」から始まり、最高の支柱である「義」、人の上に立つ者の徳「仁」、苦痛と試練に耐えるための「名誉」が語られます。書き口で印象的なのは、新渡戸が日本人を「彼ら(they)」、西洋を「私たち(we)」と記していること。外国で長く暮らし、アメリカ人の妻を持ち、国際機関という世界を見渡す地平で働いた新渡戸が「外から日本を見る」視点で書いていることがうかがえます。

 新渡戸の英語は正統、端正でクラシカルといった印象です。ヨーロッパやアメリカの読者層の背景知識を共有しているため、教養を感じさせる言い回しが多用されています。例えば最初の引用の「(善悪の認識などを)吹きこむ」に対応する「breathe in the nostrils(鼻腔から吹き込む)」は、旧約聖書でアダムに神が鼻腔から命を吹き込んだことに由来しています。遊び心や緩急の使いわけに富んだ岡倉天心の英語と比べると面白いと思います(ぜひ#9 『茶の本』の回を見返してみてください!)。

honnneco.hatenablog.com

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Courtesy and urbanity of manners have been noticed by every foreign tourist as a marked Japanese trait. Politeness is a poor vice, if it is actuated only by a fear of offending good taste, where it should be the outward manifestation of a sympathetic regard for the feeling of others. (中略) It means, in other words, that by constant exercise in correct manners, one brings all the parts and faculties of his body into perfect order and into such harmony with itself and its environment as to express the mastery of spirit over the flesh.

 外国人旅行者は誰でも、日本人の礼儀正しさと品性の良いことに気づいている。品性の良さをそこないたくない、という心配をもとに礼が実践されるとすれば、これは貧弱な徳行である。だが礼とは、他人の気持ちに対する思いやりを目に見える形で表現することである。(中略)それはいいかえれば、正しい作法に基づいた日々の絶えざる鍛錬によって、身体のあらゆる部分と機能に申し分のない秩序を授け、かつ身体を環境に調和させて精神の制御が身体中にいきわたるようにすることを意味する。

 「日本人の礼儀正しさ」について。表面だけ愛想よく、波風を立てないように行動するように見える「礼」の議論についても、西洋の議論の様式に則って、その起源と価値を説明しています。他の部分では、「武士団が高次元な道徳を生みだせるのか」という問いに対して、「西欧の騎士道と同じように、壮大な倫理体系を打ち立てるかなめ石の上に立っているのだ」と返します。強固な論と熱意と、説得力を添える修辞法が見事だなと思います。

 『武士道』の後半では、武士道が追求した「大和魂」が日本人に広く根付いた理由や、明治時代に入り「遺産」へと変化してきた武士道がこの先どのように受け継がれのかについて語られます。

 さてここで、「元祖・グローバルに活躍した日本人」新渡戸の意図や思いに焦点を移し、草原克豪著『新渡戸稲造はなぜ「武士道」を書いたのか』という一冊を開いてみたいと思います。この本には、国際連盟脱退などについての新渡戸の見解も記されており、彼の思想や働きを筋だって知るのに良い一冊だと思います。

 これまでの語り口から、新渡戸が日本の宗教・文化・社会についての深い素養を持ちながら、世界の平和や繁栄のために尽くした人だと感じられたところと思います。

 一般的な新渡戸像とは、人格を重視した教育者であり、敬虔なクリスチャンであり、平和を追求した国際人といったものであろう。それはそれで間違いではない。しかし、そこには大事な側面が書けているのだ。それは、彼が人一倍熱い愛国心の持ち主であったという事実である。(中略)新渡戸や世界的視野を持った愛国者として、常に日本の繁栄を考え、日米の友好親善、世界平和の実現を目指して発信し続けた。

 新渡戸は学生たちに、自分の世界に閉じこもった「虫の目」よりも、俯瞰的な「鳥の目」を鍛えることが重要になると説きました。

このことを新渡戸は、「センモンセンスよりもコモンセンス」という言い方で学生に伝えた。そして、自分だけの狭い世界に閉じこもらず、広く人と付き合い、社会に交わることが大事だと説いた。そのためには、異分野・異文化の人たちとのコミュニケーション能力を高めることが重要になってくる。ただし、コミュニケーションとは単なる技術ではない。問題は何を話すか、その中身であり、思想である。

 新渡戸は二項対立的な物の見方を好まず、物事の関係性から共通点を見出す「中庸」の考え方を支持したといいます。多様性に満ち、白黒つけがたい問題が増えた現代、全体を俯瞰したうえで物事の本質にせまるバランス感覚が重要だ、と草原氏は指摘します。さらに、現在世界を舞台に活躍する日本人には、日本の感性や文化の特徴を生かして活動する人が多いことを挙げて、こうも言っています。

 こうした事例は、それぞれの国や地域が長い歴史の中で築きあげてきたローカルなものにこそ真の文化的価値が宿っていることを示している。ローカルなものなしには、グローバルな価値も生まれないのである。言い換えれば、グローバル化時代だからこそ、ローカルななものの価値を大事にしなければならないのだ。

 詭弁のようだけれど、グローバリズムの進んだ世の中で求められるのはローカルな価値だということ。それなら、「個人レベルのグローバリズム」は、それぞれの人が自分の起源や来歴を土台に、対等な関係で世界の課題に取り組めることなんじゃないかと感じます。そのためには、身体ひとつで異国や異文化へ飛び込んで行ったとしても、わたしを内側から支える「日本」を、連れて歩けるようにしたいと思う今日この頃です。

 

~今日のおまけ

実はまだ、読んでいないのだけれど…。自分のアイデンティティや起源と向き合い、他人の人生の背景を尊重し、折り合えなければ衝突することもある。なんだかんだ多様性の少ない日本では実際に出くわすことの少ない、生の多様性の体験みたいなもの。読書の秋に読んでみたいなと思っています。