#12 書く者の心構え~『山月記』/『The Shadowland of Dreams』/『文学と自分』
久しぶりに高校の教科書を開く機会があって、ぺらぺらとページをめくるうち、中島敦作の『山月記』が目に留まりました。優秀な官吏でありながらも詩人になることを志して隠居した李徴が、自分自身と周囲の人に対するプライドに苛まれた挙句、虎に姿を変えてしまう話。みなさんも覚えがあるかもしれません。
高校生の当時は、「李徴はひどく自意識の強い人だな」というのが正直な感想でした。「臆病な自尊心」「尊大な羞恥心」という印象的なワードが代表するように、自分自身に対するプライド、他の人の視線や評判に敏感な自我の主張が前面に見えていました。再読してみると、その印象はそのままですが、ほかにも詩作について、書くことについて非常に辛辣な訓戒が含まれていることに気づきました。今日はそんな視点から、少しノスタルジックに。
隴西 の李徴 は博学才穎 、天宝の末年、若くして名を虎榜 に連ね、ついで江南尉 に補せられたが、性、狷介 、自 ら恃 むところ頗 る厚く、賤吏 に甘んずるを潔 しとしなかった。いくばくもなく官を退いた後は、故山 、略 に帰臥 し、人と交 を絶って、ひたすら詩作に耽 った。下吏となって長く膝 を俗悪な大官の前に屈するよりは、詩家としての名を死後百年に遺 そうとしたのである。
李徴は若くして科挙に及第して官吏に登用された。自信家であり、下級官僚に留まって俗悪な上司の前にひざまずくよりは、詩人として名声を百年先にも遺すことを選んだ。「狷介」は「自分の意志を曲げず、人と和合しないこと」、「自ら恃むところ頗る厚く」は「自分の能力に過剰な自信を持っていること」。李徴は器用だったのだろうし、それを裏付ける成果も数多くあったのだと思います。詩作にもそれなりの自信があったから,「仕事つまらないし、漢詩で百年先に遺る作品と名誉でも打ち立てるか」なんて思った。
そんな李徴は虎に姿を変えてしまった。幸運にも旧友の袁傪に巡り合いましたが、次第に理性は薄れゆき、遠くない未来に心までも虎と化してしまうことを自覚しています。李徴は袁傪に、自作の詩を書きとってくれるよう懇願します。
他でもない。自分は元来詩人として名を成す積りでいた。しかも、業
未 だ成らざるに、この運命に立至った。曾て作るところの詩数百篇 、固 より、まだ世に行われておらぬ。遺稿の所在も最早 判らなくなっていよう。ところで、その中、今も尚 記誦 せるものが数十ある。これを我が為 に伝録して戴 きたいのだ。何も、これに仍 って一人前の詩人面 をしたいのではない。作の巧拙は知らず、とにかく、産を破り心を狂わせてまで自分が生涯 それに執着したところのものを、一部なりとも後代に伝えないでは、死んでも死に切れないのだ。
次の引用は前の部分に続くところです。
袁は部下に命じ、筆を執って叢中の声に
随 って書きとらせた。李徴の声は叢の中から朗々と響いた。長短凡 そ三十篇、格調高雅、意趣卓逸、一読して作者の才の非凡を思わせるものばかりである。しかし、袁は感嘆しながらも漠然 と次のように感じていた。成程 、作者の素質が第一流に属するものであることは疑いない。しかし、このままでは、第一流の作品となるのには、何処 か(非常に微妙な点に於 て)欠けるところがあるのではないか、と。
李徴にとって数少ない腹心の友であった袁傪の、素朴な感想が鋭く刺さってきます。「執着した詩を少しでも後世に伝えなければ、死んでも死にきれない」と愬(うった)える李徴に対し、どこか醒めた思考で「なるほど一流の部類なのだろうが、第一流になるにはどこか少し足りない」と。虎に身を墜とした今になっても、自らの運命や才能に酔っている李徴に対して、作品の真価を見極める冷徹な時代の目がそこに存在する気がします。袁傪がどんなに広く李徴の詩を喧伝したところで、彼の作品が百年の先に遺ることはないでしょう。
怖いのが、作家・中島敦がこの文言を記していること。書き手として、作品が時代や歴史の淘汰に耐えないというのは、恐ろしい考えなのだと思います。なぜなら、それは命や情熱を注いで書き上げた作品が無に帰してしまうのと同義だから。袁傪の素朴な声は作家が最も聞きたくない感想であり、それを敢えて言わせた中島敦の執筆に向き合う姿勢の厳しさ、プロ意識のようなものが伝わる気がします。同時に、「名誉を得ようという下心では、真に優れた作品は残せない」という戒めも含まれているのかもしれません。こうして見ると、学生時代になんとなく習った『山月記』の新たな一面が見られるのではないでしょうか。
作家と名誉について言うと、もう一つ思い出す文章があります。こちらも実は、高校の英語教材で取り上げられていたもので、The Chicken Soup for the Soul (邦題:心のチキンスープ)というシリーズから、The Shadowland of Dreamsという一篇です。アメリカでチキンスープは風をひた時に飲む定番の栄養食。心の栄養になるような、ほっこり温まる話や人との出会い、成功体験にかんする短編を多数の著者が寄稿する形で掲載されています。今回紹介するThe Shadowland of Dreamsは、翻訳するなれば「夢の裏通り」というところ。作者はAlex Haleyというアメリカ人の作家で、自らの家族からアメリカ先住民につながる起源を綴ったルーツという壮大な作品で知られています。
ヘイリーはもともと海岸警備の仕事をしていたのが、作家業に専念したいと思い退職。古いタイプライターしかない部屋で一人、孤独に執筆を書きはじめます。のちにアメリカで一世を風靡する作品でピューリッツァー賞を受賞した著者の、原点ともいうべき経験が記されています。(日本語版が手に入らなかったので、拙訳を添えて。)
Many a young person tells me he wants to be a writer. I always encourage such people, but I also explain that there’s a big difference between “being a writer” and writing. In most cases these individuals are dreaming of wealth and fame, not the long hours alone at a typewriter. “You’ve got to want to write,” I say to them, “not want to be a writer.” The reality is that writing is a lonely, private and poor-paying affair. For every writer kissed by fortune there are thousands more whose longing is never requited. Even those who succeed often know long periods of neglect and poverty. I did.
多くの若者が「作家になりたい」と言ってくる。彼らを私は応援するが、同時に「作家になる」ことと「書くこと」は違うのだと、言って聞かせることを忘れない。多くの場合、彼らが想像しているのは富や名声であって、一人きりでタイプライターに長時間向き合うことではない。「『作家になりたい』じゃなくて、『書きたい』じゃなければだめだ」。実際の執筆は、孤独で個人的で実入りの悪い作業だ。幸運に恵まれた作家が一人いるとすれば、その背後には報われなかった作家が何千人もいる。成功を掴んだ者の多くも、貧しく誰にも顧みられない長い下積みの期間を経験しているのだ。私がそうであったように。
「作家になりたい」ではなく、「書きたい」でなければならない。そのストレートなメッセージが、実感の重みをともなって刻まれています。作家は手を汚さずに富や名声を手に入れられる甘い稼業ではなく、生活や安定を擲(なげう)ってでも「書きたい」という切望のもとに、運がよければチャンスがついてくるというものなのだろうと思います。なかなか結果を出せず、友達に立て替えてもらった支払いが返せなくなる中、ヘイリーに海上警備の仕事が舞い込みます。年に6000ドルを見込める、立派な職場です。
Six thousand a year! That was real money in 1960. I could get a nice apartment, a used car, pay off debts and maybe save a little something. What’s more, I could write on the side. As the dollars were dancing in my head, something cleared my senses. From deep inside a bull-headed resolution welled up. I had dreamed of being a writer—full time. And that’s what I was going to be. “Thanks, but no,” I heard myself saying. “I’m going to stick it out and write.”
年収6000ドル!1960年当時、それは大した金額だった。きれいなアパートを借り、中古車を買い、借金を返してもまだ手持が残るかもしれない。それに仕事の傍ら執筆もできるのだ。ドル札が脳内を舞うのを感じながら、何かが違うと感覚が訴えていた。心の奥から頑なな意志が湧き上がった。私はフルタイムの作家になることを夢見ていたのだ。そしてそうなると決めたのだ。「ありがとう、でもやめておく」と答えている自分がいた。「粘って書き続けることにするよ」。
せっかくの仕事案件を棒に振ってしまったヘイリー。他の人には無謀で状況を顧みない判断に思えるけれど、「書きたい」という強い思いに突き動かされ、執筆の永く暗い道のりに戻ります。「書きたい」という望みにある意味翻弄される、作家の性を垣間見る気がします。
さて、虎から始まった今日の記事ですが、終わりは竜にしたいと思います。
小林秀雄の『文学と自分』という短い文章から。1940年、太平洋戦争へ向かう日本の「文学銃後運動」と名のついた会での講演記録です。「文学者は、戦にどう処するか」と問われ「銃を取る時が来たらさっさと文学など廃棄してしまえばよい」と答える小林の、芯まで突き詰めた「文学者の覚悟」が熱い文体で語られます。文庫本でニ十ページに満たない文章なので、要点なんていうものを稚拙に抽出するよりも、原文を読んでいただくのが一番です。その中から、わたしの好きな一節。
文学に志す人は、誰でも頭のなかに竜を一匹ずつ持って始めるものですが、文学者としての覚悟が定まるとは、この竜を完全に殺してしまったという自覚に他なるまいと考えます。ぼくの貧弱な経験から考えても、この仕事では口で言うほどたやすいものではなく、どうすれば殺せるかというわかりやすい方法があるわけでもない。これは単に思索の上の工夫ではなく、意志や感情や感覚による工夫でもあるからです。殺そうと思って帰って相手を肥らせるというようなことにもなりましょうし、忘れているうちに相手が死んでいるというようなうまいことにならぬともかぎらぬし、まあ要するに相手は魔性であると思えばまちがいない。
頭の中の竜を殺すということ。竜は名声への欲望でもあるだろうし、観念だけの空虚な文学論でもあるかもしれない。わたしの冗長な説明で覆いつくせるものではないですが、それを殺すということ、それが文学者の覚悟につながるというのです。
竜をうまく殺そうと思っているうちは駄目かもしれない。まず「書く」ということに真摯に向き合わなければ、良い文学は生まれないのだと思います。今日も読んでくださってありがとうございました。
※今回は高校の教科書に載っていた文章を取り上げましたが、ほかにも紹介してほしい作品などあれば、コメントなどお願いします!