#2 べつの言語で~『べつの言葉で』/『日本語を書く部屋』/『エクソフォニー』

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 新しい言語を学ぶことは、新しい扉をひらくようにまったく別の世界観を見せてくれる。たとえば、虹の色の数が文化によって七色だったり、八色だったり、はたまた三色だったり。日本は伝統的に魚料理が食べられてきたので魚に関する語彙が豊富だけれど、西欧ではお肉の部位に細かい分類の言葉があたえられていますね。

 母語とは違う言葉で語ることで、普段では言葉にしにくいことが表現できたり、とらえられない概念に触れられることがあります。今日は、母語ではない他言語をまなび、さらにその言語で書くという挑戦についての本を取り上げきます。

 

 一冊目は、ジュンパ・ラヒリさんの『べつの言葉で』。ピューリッツァー賞を受賞したインド系アメリカ人女性作家によって、イタリア語で書かれた異色のエッセイです。

べつの言葉で (新潮クレスト・ブックス)

べつの言葉で (新潮クレスト・ブックス)

 

  四十歳を過ぎたころ、作者は英語と祖国のベンガル語という二つの母語を離れ、「イタリア語で書きたい」という欲求を追ってローマに移住します。作家が新たな言語のなかに踏み出し、その言語でしか書けない、その言語だからこそ書きたい物語をつくっていく過程が綴られます。

 イタリア語で書くとき、わたしは自分を侵入者かペテン師のように感じる。うわべだけの不自然なことをしているように思える。境界を越えてしまい途方に暮れていること、逃亡中だということに気がつく。自分が完全な異邦人だということに。(中略)

 わたしの第一言語であり、それに依存し、それによって作家となった言語から離れ、イタリア語に専念しようとする衝動はどこから来るのだろうか?

 作家にとって商売道具である第一言語、それから離れて別言語の世界に踏み入れることは、言いたいことを表せない、自分の文体を築けないもどかしさや、屈辱感をともないます。しかしそれは同時に変身であり、解放でもあると筆者は言います。

「新しい言語は新しい人生のようなもので、文法とシンタックスがあなた を作り変えてくれます。別の論理、別の感覚にすっと入り込んでください」この言葉がどれほどわたしを勇気づけてくれたことか。(中略)だが、この新しい始まりという変化は代償が大きい。ダフネのように、わたしも動きが取れなくなっている。(中略)生まれ変わり、閉じ込められ、解放され、居心地の悪い思いで。

 エッセイの間に、筆者がイタリア語で書いた短い小説『取り違え』『薄暗がり』が掲載されています。どちらも日本語に翻訳された状態で読むしかないのがはがゆいところですが、もがきながらも筆者がつかもうとした感覚を、少しは追体験する気持ちになれるかと思います。

 

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 二冊目に紹介する本は、リービ英雄さんの『日本語を書く部屋』。

日本語を書く部屋 (岩波現代文庫)

日本語を書く部屋 (岩波現代文庫)

 

 リービ英雄さんは、アメリカ生まれの作家で、万葉集日本書紀をはじめとする日本文学についての本を著すかたわら、日本語でエッセイや現代小説を執筆し、ワールドフィクションの書き手として評価されています。1996年には、西洋出身者が日本語で書いた現代文学作品として初めて『天安門』が芥川賞候補に選ばれました。

 『日本語を書く部屋』は言語を超越することや、日本文学への思いをつづったエッセイです。越境のパイオニアともいえるリービさんですが、文化や言語を越えて日本語をあつかう作家として、「越えてきた者の記録」という一遍が印象的です。

越境は、ある文化の外部にいるものにだけ起こるのではない。日本人として生まれた人でも、日本語を書くためには、一度、「外国人」にならなければだめなのだ。「当たり前な日本語」の「外」に立って、自分の言葉に異邦人としてたいする意識を持たなければよい作品は生まれない。これは、一流と呼ばれる日本の作家なら誰もが感じている今日的な表現の問題である。

 他国と陸続きの境界線を持たない島国として、ある時は鎖国までして外国との境目や違いを意識してきた日本。だからこそ存在する厳格な「越境」の感覚や、一度外に立って言語を見ることの意義が語られています。

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 「コトバの所有権」について書かれた部分があります。

 「日本語の感性や感覚は、日本に生まれ育った者にしかわからない」という決めつけ。その背後には、「言語=人種=文化=国籍」という考え方があると言います。

日本語で書くという、日本の生活者にとっては当たり前な行為が、いったんぼくが日本語を使って表現するとなると、そのイコール・サインを破ろうとしている、自分の意図とは関わりなく、そう解釈されてしまうことを認識せざるをえなかった。

(中略)しかし、単一民族という窮屈な現代イデオロギーから解放されて、民族と関わりなく世界の中のもう一つの偉大な言語として輝きはじめたという意味では、「日本語の勝利」はこの時代だからこそ可能になった課題であると言うべきではないだろうか。

 「言葉の壁」という表現がありますが、言葉が使える/使えないという段階の次には、多様な言語のあり方を受け容れる、受容の壁があるのだろう、と考えさせられます。グローバル化、と標語ばかりが叫ばれている今日この頃ですが、文化を多角的にとらえる視点というのも、世界に開かれた国を作るのに大切だと思いました。

 ここにリンクを貼ったのは岩波現代文庫版ですが、岩波書店の単行本版の表紙には実際の「日本語を書く部屋」、リービさんのかつての仕事場と思われる写真が使われています。畳に置かれた革椅子、扇面の掛け軸、ワイン瓶がいくつか、墨汁の染み。この場所での執筆の日々に思いを馳せます。

 

 三冊目は、多和田葉子さんの『エクソフォニー―母語の外へ出る旅』。

  多和田さんは、ドイツ文学者で、日本語ドイツ語の両方で創作活動をされています。題名にもなっている「エクソフォニー」は「フォニー(言語・言葉)」と「エクソ(外)」の組み合わせで、「母語の外に出た状態」という意味。この本では言語をその枠組みの外からながめることで得られる発見がたくさん盛り込まれています。

 慣用句の言い回しや、物の数え方、方言へのアプローチ。母語の中ではあたりまえに感じられることも、ひとたび外部の視点をもってながめると、新たな表情を見せてくれます。多和田さんはドイツ語と日本語の間の領域の視点から、さまざまな楽しい発見を紹介しています。

ドイツに来たばかりの頃、すごく印象深かったのが、tote Hose(死んだズボン)という言い方だった。地方都市などに行って、夜も十時くらいになると、もうレストランや飲み屋がみんな店じまいして、ディスコや映画館などはもともとないので、人通りもなくなり、退屈だったりすると、「あそこは十時を過ぎると死んだズボンだ」などとみんな言う。

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 「エクソフォニー」は外国語を学ばなければ体験できないことかと思いきや、多和田さんは日本語という言語の中でも視点を変えることで新たな発見を得られると言います。

「からだ」の訳語はKörperだけれども、両社は全く違う。 日本語ではよく「おからだに気をつけて」と言うが、それを直訳して、Körperに気をつけてください、と言ってみると、ひどく変である。日本語でも、もし誰かに「肉体にお気をつけて」などと言われたら、どきっとするだろう。

 

 言われてみれば「確かに…」と思うところですが、言語の内部で暮らしているとなかなか気づかないことですね。誰にでも開かれている「エクソフォニーの旅」、ちょっと興味が湧いてきます。

日本でドイツ語を勉強している人にも、ドイツ語で日記をつけることを勧めたい。文法、スペル、その他、いろいろ間違いを犯すかもしれないが、そういうことは取り敢えずあまり気にしないで、書きたいことをなるべく楽しんで書く。面白いのは、日本語では恥ずかしくて書かなかったかもしれないことを平気で書けることもあるということである。

 今回は「べつの言語で」というテーマで本を見てきましたが、いかがでしたか。日本語や外国語にたいしての味方が少し変わるアイディアの提案でした。読んでくださってありがとうございます。

 

~今日のおまけ

  肩肘はらずに読める一冊。題名通り、可愛らしいイラストとともに世界のことわざを紹介した絵本です。「あなたのレバーをいただきます」「ロバにスポンジケーキ」など、意味を知ったら自慢したくなるものばかり。飾っておいてもかわいいので、本好きさんやお子さんへのプレゼントにもぴったりだと思います。