#6 花伝書 秘すれば花~『すらすら読める風姿花伝』/『当麻』

 

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 今日のテーマは『花伝書』、観阿弥世阿弥の築いた古典芸能・能の本質を記した著作です。わたし自身、能の観覧も経験が浅く、初学者なので、少しでも能の考え方に近づける作品を手掛かりに読み解いてみようと思います。

 一冊目は、林望さんの『すらすら読める風姿花伝』。開いて驚くのが、本当にすらすら読めること。(この講談社+α文庫のすらすら読めるシリーズはおすすめ。)

すらすら読める風姿花伝 (講談社+α文庫)

すらすら読める風姿花伝 (講談社+α文庫)

  • 作者:林望
  • 発売日: 2018/03/23
  • メディア: Kindle
 

  本の段組みは教科書に似ています。ページの上三分の二には大きな文字で原文、その下には少し小さな文字で現代語訳や解説が配されています。原文の言葉づかいにふれながら、流れるような現代語訳で意味を確かめられる構造です。

 『風姿花伝』では、「秘すれば花」「幽玄」といった概念が有名なところです。どのように捉えるか、長い間議論がされてきた部分でもあります。『風姿花伝』では「花」という言葉が何度も登場し、「花」こそが芸にとって大切なものであると説かれるけれど、具体的にこういうものだ、という定義は示されない。花がある、花がない、まことの花、時分の花。文章の中でくどくど説明することなしにさらりと使われる「花」という言葉に触れながら、外縁から回り込むようにその神髄を想像しながら読み進めます。

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 こちらは、能に向き合うべき姿勢を、年齢ごとに書き記した「年来稽古条々」という段の一部。とりあえずは芸が様になってきて、若い華やかさのそなわる二十四、五歳の者に向け、若く珍しいゆえの賞賛に慢心することをいさめるところです。

(原文)されば時分の花をまことの花と知る心が、真実の花になほ遠ざかる心なり。ただ人ごとに、この時分の花に迷ひて、やがて花の失するをも知らず。初心と申すは、このころのことなり。

(現代語訳)すなわち、こういうことである。一時かりそめの花をほんとの花だと思い込んでしまう心が、真実の花に遠ざかる心である。そんなふうにして、誰も彼も、この一時かりそめの花を褒められて有頂天になる結果、すぐにその花は失せてしまうのだということも悟らない。「初心」というのは、子供時代の事ではない。まさにこの人も褒める若盛りのことなのである。

  花というのは、芸の深みや秘儀のことでしょうか。一時の若さや物珍しさで脚光を浴びても、それはかりそめの花に過ぎず、真実の花と履き違えてはいけないと、世阿弥は忠告しています。
 世阿弥が若い頃、能は申楽(さるがく)と呼ばれて将軍にも気に入られていました。しかし、その後将軍の代替わりにともなって申楽は庇護を失い、しまいには弾圧されるようになります。若い頃、物珍しさや華々しさで脚光を浴びてもそれは「かりそめの花」、じっと長年稽古を積みながら芸を深化させて身に着くのが「ほんとうの花」。晩年、不遇の時を過ごした世阿弥の戒めには、重みがあります。

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 次に引用するのは、もっとも有名といっても良い、「秘すれば花」の部分。

(原文)一、秘する花を知ること。「秘すれば花なり。秘せずは花なるべからず」となり。この分け目を知ること、肝要の花なり。そもそも一切の事、書道芸に置いて、その家々に秘事と申すは、秘するによりて大用あるがゆゑなり。しかれば秘事といふことをあらはせば、させることにてもなきものなり。これを、させることにてもなしといふ人は、いまだ秘事といふことの大用を知らぬがゆゑなり。

(現代語訳)そもそも、いやこれは能楽だけの事ではない、もっと広く営みの一切において、そして何の芸能においても、家業のそれぞれに「秘事」というようなことはあるだろう。それは、そのように秘めておくことそれ自体のなかに大きな「働き」があるからなのだ。秘事などと言ったところで、その内実を知ってしまえば、「なーんだ、そんなことだったのか」という程度の、まあたわいないことであることが多い。といってしかし、じゃあそんなことは大層に言うほどのことではないじゃないか、などという人は、ものごとの道理がわかっておらぬ。つまり、秘事ということの大きな働きを知らぬから、そんなことが言えるのだ。

  あたりまえだけれど、秘めているから秘儀、秘訣とよばれる。

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 ここから先は、わたしの個人的な考えですが、「花の内実は明かしてしまえば大したことではない」というのは本当だろうかと疑問に思ってしまいます。能の秘儀や深みをわかりやすい言葉に直して伝えることなんてできるのでしょうか。もしかすると、「花」の中身は、能を極めた者にも言語化しにくいものなのかもしれません。世阿弥はほかの段で、能楽には物まねが肝心だと語っています。それも、写実を極めればよいのではなく、程々にそれらしく、強くはあっても麁(あら)くはなく、幽玄ではあっても弱くはなく、わきまえて真似しなければならない。

 形式からほんの少し逸脱することで真実味が加わり、ただの物まねに芸の面白みが足される。「花」とは当人たちも言い表しにくい、無理に言葉にすれば全く違う意味になってしまうような微妙なニュアンスを指しているとも読めます。もしそうだとすれば、「させることにてもなきものなり(大したことではない)」と言い切った世阿弥は、頭の切れる、言葉巧みなひとだと思うのです。

モオツァルト・無常という事 (新潮文庫)

モオツァルト・無常という事 (新潮文庫)

 

  ここまでですでに、結構な長さになってしまいました。二冊目に挙げたのは『当麻』(たいま、と読みます)という題名の、小林秀雄による評論です。本当に短くて、文庫本でも数ページ。当麻という能を観たときの心象から思考を膨らませた作です。この中で小林秀雄は、『風姿花伝』で述べられていた「花」という概念と「美」について、こう語っています。

 僕は、無用な諸観念の跳梁しないそういう時代に、世阿弥が美というものをどういう風に考えたかを思い、其処に何んの疑わしいものがない事を確かめた。「物数を極めて、工夫を尽くして後、花の失せぬところをば知るべし」。美しい「花」がある、「花」の美しさという様なものはない。彼の「花」の観念の曖昧さについて頭を悩ます現代の美学者の方が、化かされているにすぎない。肉体の動きに則って観念の動きを修正するがいい、前者の動きは後者の動きより遥かに微妙で深淵だから、彼はそう言っているのだ。

  観念とか、解釈とか、花の定義とか、そんなものをこねくり回しているうちは、能の美学がわかっていない。能の美学は、対象を真似るようで真似るだけでは足りない微妙な写実の程度に、集約されているのだということなのだろうと思います。

 ほんとうに、次で最後。#2の記事で紹介した『エクソフォニー』という本の中で、著者の多和田葉子さんが「花」と「美」について語っていた一節があります。

(過去の記事はこちら↓)

「美」という概念なるものは、古くから日本にあったのではなく、西洋から輸入されたものだとして、その身体性の乏しさについて触れた部分です。

「美」という単語は構えが大きいだけに、身体性が貧弱だ。『枕草子』の類集的算段に現れる「心ときめきするもの」「あてなるもの」「めでたきもの」「なまめかしきもの」「うつくしきもの」「とくゆかしきもの」「心にくきもの」などの様々な形容詞を見ていると、その知的、感覚的繊細さに比べて、「美」はコンクリートの塊のように感じられる。(中略)

また、『花伝書』の「花」という単語の使い方も面白いと思う。存在するのは「美しい花」か「花の美しさ」かなどといつまでも議論していないで、「美」を「花」と訳してしまってもよかったのではないか。

「美」を「花」と、訳してしまえばよかったのに。

 古くて新しい能の世界、少し読んだだけでも魅力にとらわれてしまいそうです。

 長くなってしまったので、今日はここまで。読んでくださってありがとうございます。