#7 サナトリウムより~『風立ちぬ』/『冬の日』/『足たゝば』

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 サナトリウム文学とよばれるジャンルがあります。結核に有効な治療法がなかった時代に、結核にかかった患者は空気のきれいな高原などで長期療養する習慣がありました。そんな人里はなれた清潔なサナトリウムで、俗世から離れ、特に若者が命と向き合いながら時間を過ごす日々を描いた作品群のことです。今回はサナトリウム文学を含め、かつては不治の病とされた「結核」にまつわる本を取り上げたいと思います。

  一冊目は、堀辰雄の『風立ちぬ』です。ジブリ映画の原作のひとつであり、名前を知っている人は多いと思います。映画のヒロインは「菜穂子」ですが、本では「節子」です。堀辰雄には『菜穂子』という別の作品もあり、映画での名前はこちらからとったのだと思います。

風立ちぬ

風立ちぬ

 

 『風立ちぬ』は、結核にかかってしまった「節子」の療養生活から死、そのあとまでを、節子の恋人の「私」の目線で描いたお話です。 節子の命の短さに重なる、はかない水彩画のような書き口がとても印象的です。

私達はお前の描きかけの絵を画架に立てかけたまま、その白樺の木蔭に寝そべって果物をじっていた。砂のような雲が空をさらさらと流れていた。そのとき不意に、何処からともなく風が立った。私達の頭の上では、木の葉の間からちらっと覗いている藍色あいいろが伸びたり縮んだりした。それと殆んど同時に、草むらの中に何かがばったりと倒れる物音を私達は耳にした。それは私達がそこに置きっぱなしにしてあった絵が、画架と共に、倒れた音らしかった。すぐ立ち上って行こうとするお前を、私は、いまの一瞬の何物をも失うまいとするかのように無理に引き留めて、私のそばから離さないでいた。お前は私のするがままにさせていた。

風立ちぬ、いざ生きめやも。

 節子が野原に油絵のイーゼルを立てていたところに、突然風がおこり、「生きなければ」という思いが不意に湧きおこる。映画の一場面にしたくなるのもうなずける、美しい場面です。

 節子は病に冒されているぶん、汚されない純粋さや美しさを持っています。

「私がこんなに弱くって、あなたに何んだかお気の毒で……」彼女はそうささやいたのを、私は聞いたというよりも、むしろそんな気がした位のものだった。
「お前のそういう脆弱ひよわなのが、そうでないより私にはもっとお前をいとしいものにさせているのだと云うことが、どうして分らないのだろうなあ……」(中略)

私、なんだか急に生きたくなったのね……」
 それから彼女は聞えるか聞えない位の小声で言い足した。「あなたのお蔭で……」

 「節子」と「私」の間には、恋人が互いを慈しむ穏やかで切ない時間が流れます。言葉では節子の回復を信じている「私」も、だんだんと死を予感せざるを得ない運命を感じるようになります。移りゆく季節はかけがえのない、一度きりの風景になっていきます。

そんな或る夕暮、私はバルコンから、そして節子はベッドの上から、同じように、向うの山の背に入って間もない夕日を受けて、そのあたりの山だの丘だの松林だの山畑だのが、半ば鮮かな茜色を帯びながら、半ばまだ不確かなような鼠色徐々に侵され出しているのを、うっとりとして眺めていた。(中略)
「何をそんなに考えているの?」私の背後から節子がとうとう口を切った。
「私達がずっと後になってね、今の私達の生活を思い出すようなことがあったら、それがどんなに美しいだろうと思っていたんだ」(中略)

「……あなたはいつか自然なんぞが本当に美しいと思えるのは死んで行こうとする者の眼にだけだと仰(おっしゃ)ったことがあるでしょう。……私、あのときね、それを思い出したの。何んだかあのときの美しさがそんな風に思われて」そう言いながら、彼女は私の顔を何か訴えたいように見つめた。

  美しい夕日を見て、「長生きしてまたこんな景色を見られたらいい」と考える私。しかし節子は、夕日が美しく見えるのは「自分が死んで行こうとするからだろうか」と考えています。すでに、節子が「あちら側」の立場で物事をとらえているのが、痛々しいほどの対比で描かれます。

 この作品は、堀辰雄とその婚約者との実体験を描いたものと言われています。自然の風景がかもし出す美しさの「永遠性」が描かれる一方で、遺された者がその後どう生きるのかという苦悩も綴られます。このお話は作者自身の葛藤の跡でもあるのかもしれません。

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 二冊目は、対照的な一遍として、梶井基次郎の『冬の日』。現在手に入る文庫本では、『檸檬』に掲載されています。(早くも二回目の登場。好きな作家です。)

檸檬

檸檬

 
檸檬 (角川文庫)

檸檬 (角川文庫)

 

  主人公の堯(たかし)は結核を患っています。間借の四畳半に一人暮らしですが、血痰や激しい疲労感のため、午後になって少し起き出して外出するだけの生活。「午後二時の朝餐」を、堯は「ロシア貴族のようだ」と皮肉めいて表現します。

 長い闘病生活のうちに生きる希望を失い、きれいなものや美しいものに心惹かれながらも、孤独と絶望に呑み込まれてゆく堯の姿が描かれます。友人の折田が尋ねてきても、対応は卑屈です。

らは話をしているといくらでも茶を飲んだ。が、へいぜい自分の使っている茶碗でしきりに茶を飲む折田を見ると、そのたび彼は心が話からそれる。その拘泥がだんだん重く堯にのしかかって来た。
「君は肺病の茶碗を使うのが平気なのかい。咳をするたびにバイキンはたくさん飛んでいるし。――平気なんだったら衛生の観念が乏しいんだし、友達甲斐がいにこらえているんだったら子供みたいな感傷主義に過ぎないと思うな――僕はそう思う」
 言ってしまって堯は、なぜこんないやなことを言ったのかと思った。折田は目を一度ぎろとさせたまま黙っていた。
「しばらく誰も来なかったかい」
「しばらく誰も来なかった」
「来ないとひがむかい」
 こんどは堯が黙った。が、そんな言葉で話し合うのが堯にはなぜか快かった。

 病に冒され、友達との付き合い方も変わってしまう。『風立ちぬ』と比べると、こちらの方が病の苦々しさをありありと表現しているように思います。梶井基次郎結核にかかり早世してしまった当事者なので、才能に恵まれながらも病に冒されてしまったやりきれなさや悔しさが、にじみ出ているように感じられます。

 以前は心が躍った銀座のデパートも、今では堯を元気づけることはできません。心身共にぼろぼろになりながら、来る日も来る日も暗がりをもたらすだけで姿の見えない夕日を追い求め、堯は苛立ちながら見晴らしのきく場所を探して歩き回ります。

「あああ大きな落日が見たい」(中略)
 日の光に満ちた空気は地上をわずかも距(へだた)っていなかった。彼の満たされない願望は、ときに高い屋根の上へのぼり、空へ手を伸ばしている男を想像した。男の指の先はその空気に触れている。――また彼は水素をみたた石鹸玉が、蒼ざめた人と街とを昇天させながら、その空気のなかへパッと七彩に浮かび上がる瞬間を想像した。
 青く澄み透った空では浮雲が次から次へ美しく燃えていった。みたされないの心の燠(おき)にも、やがてその火は燃えうつった。
「こんなに美しいときが、なぜこんなに短いのだろう」
 彼はそんなときほどはかない気のするときはなかった。燃えた雲はまたつぎつぎに死灰になりはじめた。彼の足はもう進まなかった。
「あの空を涵(み)たしてゆく影は地球のどの辺の影になるかしら。あすこの雲へゆかないかぎり今日ももう日は見られない」
 にわかに重い疲れが彼に凭(もた)りかかる。知らない町の知らない町角で、の心はもう再び明るくはならなかった。 

 この引用箇所で、この短編は終わっています。「あああ大きな落日が見たい」と苛立ちながら切実に願望した堯ですが、ついに見晴らしの良い坂の上にはたどりつけなかった。その絶望は堯をうちのめします。『風立ちぬ』では刹那的な美しさで描かれた夕日が、今度はどうしても手の届かない渇望の対象として描かれるのが、印象的です。

 ちなみに作者の梶井基次郎は「たかし」という名前に思い入れがあったのか、新潮文庫の『檸檬』に収録された短編たちには漢字の違う数々の「たかし」が登場します。堯、孝、喬…といろいろな「たかし」に出会えるので興味があればぜひ。

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子規歌集 (岩波文庫)

子規歌集 (岩波文庫)

  • 作者:正岡 子規
  • 発売日: 1986/03/17
  • メディア: 文庫
 

 最後に、正岡子規の短歌連作『足たゝば』を一部引用して終わろうと思います。俳人として有名な正岡子規ですが、短歌を何首かまとめて一連のイメージや世界観を伝える、連作というものにも取り組んでいました。これもその一つで、旅行帰りの友達の写真を見て、想像をふくらませたといいます。

 どれも「足たゝば~ましを(もし足が立ったら、~するのに)」という形をしていて、今は歩けなくなってしまった子規が、もしまた歩けたら、と空想している作品です。アイデアやリズムがよく、思わず口ずさみたくなります。

足たゝば二荒のおくの水海にひとり隠れて月を見ましを

足たゝば北インヂアのヒマラヤのエヴェレストなる雪くはましを

足たゝば蝦夷の栗原くぬぎ原アイノが友と熊殺さましを

足たゝば新高山の山もとにいほり結びてバナナ植ゑましを

 もし足が立ったら、つまりもし歩けたら、二荒(ふたら)の月を眺め、エヴェレストの雪を味見し、アイヌと熊殺しに赴き、新高山のふもとにバナナを植えるのに。わたしのお気に入りは、バナナの一首。突拍子もない願望が世界のあちこちを駆けまわるなかに、結核などに負けていられるかという意地や生命力、お腹の底から湧いてくる人間本来の力がみなぎるようで、こちらもパワーをもらえます。今日はここまでにします。読んでくださってありがとうございます。